今日もどこかで、誰かの心無い一言で、傷ついていると思うと、私は凄く腹が立つ。
腹が立ってしょうがない。
言われている本人は深く傷ついているかもしれない。
でもそんなあなたを応援している人にとって、その一言に凄く腹が立つものなんです。
もし、自分の大好きな人が、誰かの心無い一言で傷ついていたらどう思う?
一緒に傷つくか?
私は腹が立つ。
その言葉を私の大好きな人に発した奴に対して莫大な嫌悪感を抱く。
大好きな人にはいつも笑顔でいて欲しいと思うのが当たり前だ。
そんな大好きな人が傷ついている姿を見て、平気でいられるわけがない。
平気なフリをして元気づける時だってあるかもしれないけど、内心はそれを言った相手に対してはらわたが煮えくり返ってる。
大好きな家族、大好きな友達、大好きな恋人。
大好きな人が傷ついている姿を見たいはずがない。
でも、もしそんな大好きな人が腹を立てている姿を見て、「言わない方が良かったかな?」なんて思わないでほしい。
「余計な心配をかけてしまうから…」と一人で抱えるのもやめてほしい。
私は言ってほしいのです。
どんなに腹が立っても、大好きな人が抱えている気持ちや、その時感じた想いを知りたいのです。
気持ちを共有する事で傷ついた心を癒せるのかはわからない。
わからないけどそうしたい。
なんだかわからないけどそうしたいんです。
そして次は…。
私に出来る事は何だろう。
きっとまだまだある。
だからまず。
このブログを書きます。
言葉の価値。
この世には心無い一言でどれだけ人が傷つくのかを知らない奴がいる。
私は「どうしてそんな事が言えるの?」って経験をこれまで何度もした。
何度も何度も何度も。
一度そういった言葉を受け取ると、傷ついて、人に対して恐怖を感じるようにもなった。
いつしか「傷つかないように…」と心掛けて、そういった言葉を言われないように生活するようになった。
その分多くの人に気を使うし、周りの人の気持ちを考えるようになっていった。
気が付けば大人になって、相変わらず気を使う毎日を過ごしていく内にそれがストレスになった。
「言われたくないから、言わない」をずっと継続している。
その間に、学校へ行って、仕事をして、恋をして、結婚して、大好きな家族が出来た。
それでもあの日の心無い一言の傷はまだ深く残っていて、家族の前でも「言われたくないから、言わない」を続けていた。
私の妻はズバズバと言いたい事が言える人だと思っている。
腹が立つ事もある。
でもそこに「心無い一言」はほぼ生まれない。
むしろ「言いたい事はちゃんと言え」と言われる。
溜めるな、ちゃんと伝えろ。
最初は全然出来なくて、ストレスを溜めながら生活していたけど、大好きな家族は大切にしたい。
何年も経って、やっと、ようやく、最近、ちゃんと言いたい事をその場で伝えられるようになった。
その中には熱くなり過ぎて「心無い一言」と捉えられてしまう事もある。
それで大好きなはずの相手を傷つけてしまう事もある。
だけど大切にしたい気持ちは変わらなくて、家族の前では自分らしくいたいから、それでも言う。
言い合いになったりする事もあるけど、その後のお互いの理解は深くなる。
思っているだけなら結局相手には伝わらない。
言葉にして初めてまとまる自分の考えもある。
本心だと思って飛び出た言葉が相手にとって「心無い一言」になってしまう事もあるのを知った。
もちろん大嫌いな奴に対しても本心で「心無い一言」を発してしまう事がある。
結局どんなに上手に言葉を絞り出してみても、相手の感じ方まではわからない。
でも私達はこれからも言葉を使わなくてはいけない。
コミュニケーションを取りながら生きていかなくてはいけない。
良い意味でも、悪い意味でも、やっぱり言葉は必要で、傷ついたり、傷つけたりしながらも使っていかなくちゃいけない。
ただ、子供の頃に傷ついた心無い一言があって、大人になっても傷つく心無い一言もある。
言葉って難しい。
きっとこれからも、多くの言葉と、その使い方を覚えていくんだと思っている。
大人になったって傷つく言葉はたくさんあって、子供の頃よりは柔軟に受け取れるようにはなったけど、それでもちょっとした一言でダメージを負ったりする。
言葉ってのは心までダメージが届くから、怖くて使うのをためらう事もあるけど、上手に使えるようになればなる程、私達の発言や気持ちは自由になっていくんじゃないだろうか。
言葉には私達を心から自由にしてくれる価値がある。
心無い一言で傷つく事はたくさんあるけど、将来の自分がより自由な選択をしていけるように、傷つきながらも、勉強していくしかないような気がしている。
まだまだ勉強中。
知らない事だらけ。
言葉じゃなくて、「あなたがいてくれる」って存在だけで救われる瞬間もある。
言葉で傷ついた感情は言葉で癒すものだと思ってたけど、そうでもないらしい。
思い出してみると、私は家族の存在と言葉に、たくさん救われている気がする。
都合の良い思い込み。
私がいつも心無い一言で傷つくのは、「そんな事言われるとは思っていなかった」からです。
いつもそう。
まさかそんな事を言われると思っていなかったのに、突然、心無い一言が突き刺さる。
準備してない。
ノーガードで心まで突き刺さったりする。
シンプルな「バカ野郎!」って言葉だけで何度も傷ついた記憶すらある。
心無い一言ってのはいつも突然やってくる。
仲の良い友達からも、通りすがりの知らない人からも、お店の中でも、電車の中でも、家族でも、恋人でも、いつどこから飛んでくるかわからない。
準備しようがない。
つまり私はいつも「そんな事を言われるはずがない」と思って生きている。
そんな事を言われるような人間じゃないと思っている。
だから傷つく。
準備が出来るような事じゃないのに、いつも準備しようとしているような気がする。
「そんな事言われるはずがない」って思い込んで生きている。
だってそっちの方が毎日がルンルンだから。
ハッピーに生きられる。
でも世の中はいつどこで心無い一言が飛び込んで来るのかわからない。
だから何度も深く傷つく度に、「常に心無い言葉を言われる可能性がある」と頭の片隅に置いておくようにした。
そうすると、逆にハッピーじゃなくなった。
誰とも深く付き合う事が無くなり、疎遠になる友達も増えた。
人間関係をうまく築けなくなった。
「傷つかないようにする」って準備は、人と深く接しないようにする事と繋がった。
それでも納得して生きていければいいんだろうけど、私の場合はそういった意識から「本音を言えない人」や「本音を隠す人」になった。
なってしまった。
大好きな人が出来て、共に生活をしていく中で徐々にそれは無くなっていったけど、本音を言えないのはやっぱりモヤモヤするし、価値観を共有出来ない毎日は面白くなかった。
当時はなんとなく仕事をして、なんとなく家に帰って、なんとなく仕事に向かう。
そんな毎日に対して「退屈だ!」って思う自分の本音も言わず、ただ淡々と過ごしていた。
でもそれを続ければ「傷つかなくて済む」と思っていた。
ところが、面白くない。
つまんない。
今、家族の中で本音を言えている瞬間にストレスは無い。
ストレスが無いどころか、そこから更にコミュニケーションが生まれて、多くの気付きがあったりもする。
今の私は「本音を言えなきゃ人と深く繋がる事は出来ない」と思っている。
本音の中にはどうしても「心無い一言」が眠っていて、たまにそれが出てきて、誰かを傷つけてしまう事がある。
逆に、それを言われて傷ついてしまう可能性もある。
それを嫌がって自分の本音を隠せば人と深く関わりを持てなくなって、多くの気付きを失う。
それが嫌で、私は徐々に変わった。
結果的に自分が変わりたい方向へ変わっていっているんだと思う。
自分が望む未来の方へ進むには、自分の都合の良い考え方を持つしかない。
あの時は本音を隠して生きていた。
今は本音を隠さず生きている。
どっちが良いかはその都度自分で決めるけど、きっかけは間違いなくあの日の心無い一言だったように思うのです。
それでも期待してしまう。
子供の頃にダメージを受けた心無い一言は、今でもしっかり刻み込まれている。
思い出すと、ざわつくのです。
眠れなくなったりする。
忘れられない一言ってのは悪いものばかりが残っている。
人によってはそれを教訓と呼ぶ人もいるが、私にはどうしてもそうは思えない。
どちらかというと今でも「なんであんな事言ったんだ?」と腹が立ったりする。
ざわざわした気持ちを持ったまま恨みのような感情を持って普段の生活を続ける。
しばらくして傷ついた一言が薄れていく時もある。
そうなると、元の自分に戻る。
元の自分に戻ると、また「そんな事言われるはずがない」と思い込む。
で、忘れた頃に傷つく。
それを繰り返す。
何度も繰り返していく内に、「もういやだ!」と塞ぎ込むんだけど、結局普段の自分に戻る。
私は大人になるまでずっとそれを繰り返してきた。
その都度「いつか必ずうまくいくさ」と思ってなんとか立ち上がった。
たぶんこれからもそうしていくんだと思うのです。
誰かに期待してもまた傷つけられて、自分に期待してもまた傷つけられる。
逆に傷つけてしまう事もある。
で、何とか立ち上がって元の毎日を取り戻そうとする。
3歩進んで2歩下がる。
2歩下がる度に傷つくんだけど、3歩進んでまた自分に期待してしまう。
誰かに期待してしまう。
これで本当に自分が成長しているのかわからないんだけど、今、大人になれたんだから「きっと成長してる」って事にしている。
自分が成長した部分なんてのは見た目か背の高さくらいしかわからない。
傷つくのはいつも内面。
でも目に見えない。
「もっと強くなりたい」と願ってはみるんだけど、大人になった今、実際に強くなったのかは不明。
心は目に見えないからいつも不安になる。
「今日はうまくいくかな?」「明日は傷つかずに済むかな?」「大丈夫かな?」と思って毎日を過ごす。
目に見えないんだから、期待するしかないじゃん。
自分に。
「今日はあの人とうまくいかなかったな…」「あの言葉、すっごく傷ついたな」「なんだよアイツ!クソが!」
たくさん傷ついたけど、ちゃんと自分の為になってると思いたい。
そう思ってやるしか傷の癒し方がわからない私は、きっとこれからもそうするんだと思う。
一応、ちゃんと、大人にはなれたし。
人は延々と続く平坦な道など歩けない。
数十年生きてみて少しわかった事がある。
人は凸凹の道を歩いている。
つい最近、「お金を稼いでいる」って意味では成功者と呼ばれるであろう友人に会った時の話。
私はその人の事を「今までずっと順風満帆」だと思っていた。
実際に話を聞いたら、そんな事はなかった。
様々なトラブルや人間関係に振り回されて今があると言っていた。
実際に同じ経験をした事が無い私には伝わらない部分も多々あったけど、共感出来る部分もいくつかあった。
で、結論は、「全然順風満帆じゃねぇ」でした。
成功者ってのが「お金を稼ぐ」と決めつけたいわけじゃないんだけど、私はお金持ちではないので、素直に羨ましいと思うわけです。
だから過去も現在もその友人に対して「どうせ順風満帆なんじゃないか?」って決めつけていたわけです。
実際は全く違って、人間関係に揺さぶられ、権力に揺さぶられ、騙されそうになったり、騙されたり、裏切られたり、心無い一言で傷ついたりして、今がある。
その人と比べると私が歩んできた道がまるで平坦だったような気持ちになる。
それなりに凸凹道を傷つきながら歩いて来たつもりだけど、思ったより幸せ者だったのかもしれない。
誰もがきっと大波小波を越えながら自分の人生を生きていくんだと思った。
たぶん、私が「これはめっちゃ深い!絶対治らない!」って思っている心の傷も、誰かにとっては浅い傷なのかもしれない。
そう思いたいのです。
そう思わないとこんなに世知辛い世の中を生きていけないじゃないか。
私達は多くの誤解の上で生きている。
心無い言葉は誰かが言う一言。
私が誰かを傷つけてしまう一言。
実は、互いに「傷つけよう」とは思っていない一言だったりする。
これは多々ある。
久しぶりに会った友人に言われたのです。
「あの時に言われた言葉は本当に傷ついたわ!」
って。
私からしたら「は?言ってねーし。」です。
が、相手からしたらずっと忘れられない傷ついた一言になってる。
この意識の差はなんだろう。
私からすれば圧倒的に誤解。
相手からすれば圧倒的に嫌な思い出。
これはたまたま久しぶりに会った友人から聞いた事。
私はこれまで多くの人と出会って、言葉を交わしている。
もしかしたら、その中に「あの言葉!絶対に忘れねーかんな!ボケ!」って思っている人が他にいるかもしれない。
一人や二人じゃなく、大勢いるかもしれない。
私にとっては誤解なんだから記憶を辿っても出てこない。
でも誰かの心の傷として残っている可能性はある。
回収しようがあるまい。
私は回収しようがない傷を多くの人につけてしまっているのかもしれない。
今日、誰かの心無い一言で傷つけられて、「こいつ、絶対に忘れないからな!」って思っても、相手にとってはそうじゃない可能性。
全部誤解で済ませられればすぐに心も晴れやかになるんだろうけど、実際はそうもいかない。
今日もどこかで誰かが傷ついて、誰かを傷つけて、が繰り返されている。
私はたくさんの誤解の上に立って生きているのかもしれない。
いっその事、全部誤解に出来たらいいのにな。
そしたら心に残る傷も、少しは報われそうな気がする。
ちゃんと友人には謝りました。
覚えてないけど、ガッツリ「ごめんなさい」をしました。
でも、たぶん、いや、絶対に誤解。
私の中では誤解。
友人は笑ってくれた。
心の傷を癒すには時間も必要なんですかね。
どうか感想をください。