不味い料理を最高に楽しい時間にするスパイスを知っているか。
そのスパイスを使えばどんなに不味い料理を食べていたとしても楽しい時間に出来る。
そのスパイスこそが食事そのものと言っていい。
先に言っておこう。
食事は共有する事で美味しくても不味くても楽しい時間にすることが出来る。
問題は、誰と、どうやって共有するかである。
不味くても楽しく食事が出来る。
美味しいならもっとおいしくなる。
美味しい時間にするには共有が必要なのだ。
その共有こそ最高のスパイス。
そのスパイスの働きについて場面ごとに説明していきたい。
不味くてもおいしい時間を過ごすスパイス。
料理が不味い事を逆に利用するという考え方。
それがスパイスだ。
友達と食べているなら。
例えば友達と楽しみにしていたランチを食べていたとしよう。
すごく楽しみにしていたとしても圧倒的に不味い料理が出てきたらどうだ。
取りあえず出されたものは食べよう。
その間に色々と思う事はあるかもしれない。
お互いが同じように「不味い」と感じているのなら取りあえず笑おう。
お店の人に「不味い!」と言ってそれが聞こえてしまうようならお店にいることが気まずくなってしまう。
そうなればせっかくの友達との会話も楽しくなくなってしまう。
だから笑うのだ。
「いやー。これはすごいねー。」とか「おお!これはあれだねー。」と言ってとにかく共感を誘おう。
それに友達が乗ってきたのならそこからは楽しい。
コース料理になれば全てが期待以上に不味い可能性もあるのだ。
逆に次に出て来る料理が楽しみである。
問題は料理が美味しいのか不味いのかよりもちゃんと友達と同じ感情を共有出来ているかどうか。
共有出来ているのなら美味しくても不味くてもその後に出て来る料理は楽しみになる。
楽しみになれば後はどっちに転んでも楽しい。
間違いなく必要なのは共有なのだ。
やっぱり不味かったら笑える。
美味しくても笑えるのだ。
お金も渋々払おう。
料理が不味くても共有出来た時間は楽しかった。
そう思い込んで払うのだ。
もしかしたらそういうレストランだったのかもしれない。
敢えて不味い料理を出すレストランだったのだ。
そういう思い出も悪くない。
むしろそれで新たな友情が芽生えるかもしれない。
一人で食べているなら。
一人で食べていてあまりにも不味いと絶望するだろう。
共有が大事だとは言ったが共有しようがないのだ。
しかもめちゃくちゃ不味い。
絶望だ。
記憶に残る程の絶望かもしれない。
でもそんなに不味い料理と出会うタイミングなど滅多にない。
「今時こんなに不味いのによくやっていけるな。」と本気で思うだろう。
そう。
圧倒的に珍しいのだ。
考えてみてほしい。
そんなに珍しいものを発見した時はどうしても人に言いたくならないだろうか。
言いたくて仕方が無くなるのではないだろうか。
言えばいいのだ。
ネタに出来るくらいの「不味い店」の情報を持っているとなれば面白い方向へ持っていくしかないのだ。
諦めろ。
今目の前にある料理はどんなに頑張っても美味しくならないのだ。
そんな不味いものに出会った事に感謝しながら舌に残った思い出を持ち帰ろう。
そして機会があればネタとして伝えるのだ。
「これ以上ないくらいの不味いものと出会ったのだが食べたくはないかい?」
みんな興味深々だ。
「これまで出会ったどんな食べ物よりも不味いぞ。」
更に興味は深まるだろう。
そして次に友達と行くきっかけになる。
そうなればさらに楽しい時間を共有出来るだろう。
「な!?すごいだろ!?」
そんな共有が出来ようものなら舌に残った不味い思い出が楽しい思い出に変わるだろう。
家族と食べているなら。
家族と食べている料理が不味いのなら逆にチャンスだ。
こんなに共有しやすい相手はいないだろう。
なぜなら家族ともなれば常に同じ食事をしてきたからか味に対してはなぜか理解し合っている可能性が高いのだ。
誰が何が嫌いで何が好きなのか。
それがわかっている状態でさらに凌駕する不味さの料理が出てきたのだ。
逆に言えに帰って作りたいとすら思わせるだろう。
それかこれはどうやって作ったのかという話になるだろう。
それぞれの好みがわかっているだけに楽しい話にも花が咲く。
あれこれ言っている間に完食しているかもしれない。
または「誰が食べるか」と罰ゲーム的な流れになるかもしれない。
作ってくれたシェフにはすごく申し訳ないが、完食することで楽しむ方法もある。
それが家族間で好みがわかっているのであれば楽しみ方は広い。
先に誰かが食べて、「これはあなた好みだわ!いけるよ!」と言って食べさせる。
そしてやっぱり不味い。
「ははははは。」
の繰り返しになるだろう。
不味いものは不味いのだ。
そこにイライラして楽しくない食事にしてしまうのは勿体ない。
楽しい食事だけど料理が不味いだけなのだから。
それなら共有して楽しい時間にした方が家族みんながハッピーになれるかもしれない。
好きな人と食べているなら。
好きな人と食べているのに不味いものが出てきたら絶句するだろう。
それが「美味しいだろう」と予測して予約をしているようならさらに絶句。
その時の対応によってあなたの器は試される。
そんなに不味いのなら逆にチャンス。
その不味さをどこまで楽しい時間に出来るかがカギだ。
そこまで不味い料理を共有出来る時間で更に仲良くなれないわけがない。
チャンス。
間違いなく「あなたと一緒にいる時間は不味い料理が出て来ても楽しめる」と思わせることが出来るのだ。
食事だけではない。
不味い料理を食べていても楽しいなんて、最高の相手だと感じるかもしれない。
そのくらい相性が良いと思わせられるかもしれないのだ。
このチャンスを見逃してはいけない。
ピンチではない。
料理が不味いのはチャンスなのだ。
大好きな相手と一緒にいる時間を「何があってもこの人と一緒なら楽しい」と思わせられる。
こんなチャンス二度と巡ってこないかもしれない。
手料理を振る舞われたなら。
手料理となると「おいしい」を強要されそうで共有するのは難しいと感じるだろう。
でも大丈夫だ。
もし出されたものが本当に不味いのであれば作っている本人が「おいしいでしょ!」と言って出すわけがない。
もしそれでも「おいしいでしょ!」と強要されるような事があれば間違いなく料理のセンスはゼロ。
そんな人と不味いものを「おいしいと共有」するなど無理なのだ。
そもそも無理なものを共有しようとしている事に気が付かなければいけない。
実際にそういう人もいるだろう。
だがほとんどの人はそうではない。
「あまりおいしくないかもしれない!ごめん!」と言って出すだろう。
不味いものを自信を持って出すなんて舌がイカれているか相当な料理音痴である。
「ごめん!」と言いながら出されたものであればもちろん不味い事を共有出来る。
それが出来ない相手であればそれ以外の時間を楽しむしかないだろう。
料理音痴な人の話をネタにするという選択もあるが、それはあまりお勧めしない。
なぜなら本人の中では美味しいと思っているからだ。
それを真っ向から否定するのはあまりにも失礼であり、料理を振る舞われている状態から考えても出されたものは頂くべき。
相手が料理音痴であれば諦める。
それ以外なのであれば「美味しいでしょ!」と強要されるなんていうことはまずない。
大丈夫だ。
手料理を振る舞うのにそこまで不味いものを出す人はそうそういない。
料理は不味くても誰とどう共有するかで食事の時間は楽しめる。
逆に料理が不味い方が楽しめるんじゃないかと思う時もあるはずだ。
料理を食べに来たのに不味い料理を出されたら怒るというのもおかしな話だったりするのだ。
出されたものがすぐにおいしくなるわけでもない。
問題はそこではないのだ。
不味くても楽しめる術を身に着けていればどんな料理が出て来ても美味しい時間にする事が出来る。
不味いものは不味いのだ。
美味しいものは美味しいのだ。
それは覆しようがない事実。
それでも楽しい時間にすることが出来る。
食事とはそういうものだ。
美味しいことが全てではない。
不味いことが全てではない。
その時間を共有し、楽しむことこそ最高のスパイスだと思う。
どうか感想をください。