高校最後の夏の試合。僕たちは甲子園に出られなかった。
あの日。
全身全霊で挑んだ。
それでも甲子園には届かなかった。
練習して、練習して、練習しても、届かなかった。
努力して、努力して、努力しても、届かなかった。
「ゲームセット」
相手チームの選手は自分以上に練習したのだろうか。
相手チームの選手は自分以上に努力したのだろうか。
恐らく、したのだろう。
生まれ持った才能だけで勝負が決まってしまうなら、努力などしない。
生まれ持った才能がどんなに都合よく目の前にあったとしても、練習しなくては勝てない。
わかってはいる。
自分よりも才能がある人がいる。
努力だけではどうしても追いつけない人がいる
それでも。
どうしても。
あの日のゲームセットが受け入れられない。
未だに考えてしまう。
もし自分に魔球が投げれたら。
敗戦の記憶。
進学するか就職するか。
あの日の敗戦をまだ受け入れられない。
それとは裏腹に進学や就職を決めていく仲間たち。
「大学に行って野球を続けたい。」
という者もいれば、
「次は野球の経験を社会に活かすべき。」
という者もいる。
彼らは敗戦を受け入れられたのだろうか。
それとも受け入れられないまま進路を選んだのだろうか。
スパッと切り替えられれば苦労はしないのかもしれない。
その方がきっとポジティブな考え方なのかもしれない。
でも、どうしても受け入れられない人はどうしたらいいのだろうか。
「進路が決められません。」
監督に告げる。
監督とは言え、教師である。
恩師あり。
「決めるのは自分だ。でもな。進学か就職かっていう2択だけじゃない。進学にも色々な方向性があて、就職にも様々な仕事内容があって、2択のように見えるけど2択ではない。君たちは野球で勝つ為に練習して、努力して、精いっぱいやって、今この状況に立たされている。それでも卒業するんだ。これは学校として決められていることであって覆せない事実。決まっているのは卒業するっていう事だけだ。その先の選択肢は多い。多過ぎる。だから勉強しなくてはいけない。知らなくてはいけない。勉強して、勉強して、勉強して、選ばなくてはいけない。これから先、勉強をする時間は高校生活のように区切られていない。1年や2年かけてどんな選択肢があるのか勉強するのも悪くないと思う。間違っていないと思う。」
「まだ、あの日の敗戦がどうしても受け入れられません!」
「それは先生も同じだよ。勝たせてあげたかった。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。私の力不足。だからまだこうして野球部の顧問をしている。多くの選択肢の中からまだ選べずにいる。勉強不足なんだ。甲子園に行けなかったこと。それは監督としての才能と努力が釣り合っていないからなのかもしれない。努力が圧倒的に足りないのかもしれない。敗戦の記憶を消せずに、今も甲子園出場にこだわっている。ただ、高校生活が3年間という区切りがつくだけ。私はそれでも今後も甲子園出場を目指したい。」
それはテレビで見た事があったり、雑誌で見た事があったりするような内容であった。
恩師であることは間違いない。
でも、どこか、ありきたりであった。
すごくつまらない人生の教訓のような響きだった。
欲しい言葉はそれではない。
勝利へ。
徹底的に悩んだ。
敗戦の理由。
あれは間違いなく自分の力不足。
監督でもなく、周りの選手でもなく、自分の力。
どこかで、いつも自分には特別な力や才能があると思い込んでいた。
だから練習して練習して努力して努力してを繰り返せば結果が出ると思っていた。
そういった練習や努力が勝利へ繋がると思っていた。
たぶんそれは違った。
勝利は汗や泥にまみれているところにはない。
もっとその先にあるものだと思う。
たぶん、
あの日の敗戦の原因は野球で勝利を掴むために練習を繰り返してきたから。
本当は、
自分の人生の「勝利」を掴む為に野球の練習をしなくてはいけなかった。
「野球の練習をする」という中身は同じ。
傍から見ても違いはわからない。
でも何の勝利を掴み取りたいのか。
それが自分の人生でなくちゃいけなかった。
高校3年間。
野球の勝利こそ人生の勝利だと思っていた。
よく考えたらそんなわけがないのに。
甲子園に行きたくて、行けなった時に全てが終わってしまったような気がした。
あの日のゲームセットが人生のゲームセットだと勘違いしてしまった。
いや。
振り出しに戻るような気がしていた。
白紙に戻されたような気がした。
もちろん甲子園に行くことが全てであっていいと思う。
むしろその気持ちが無ければ悔しい想いすらしなかった。
でも本当の勝利は野球だけではなく、自分の人生の為に勝ち取らなくてはいけない。
まだ、人生の勝敗は決していない。
どれでもいい。
きっと人生の中での大きな勝利が先にある。
だから野球での敗戦の味は存分に味わうべき。
今の自分がまさにそう。
敗戦を噛みしめている。
例えばこの先、野球を続けて、大学に行き、プロ入りを目指す。
就職して、勉強して、良い会社に入って給料を頂く。
結婚して、子供が出来て家族になる。
どれでもいいのだ。
自分の人生の勝利がどこにあるのか。
それを探しながら生きていかなくちゃいけない。
最後には必ず勝利を掴む。
だからそれまでの敗戦や挫折の味は忘れない。
それを持ってさらにプロを目指すのか。
それを持って別の何かを目指すのか。
今決めるのは高校3年間が終わった先の進路であって人生の全てではない。
だからどれでもいいのだ。
誰かが言ってた、
「人生は何を始めるにも遅いということはない。」
その意味が少しわかったような気がする。
大事なのは自分の人生の勝利をいかにして掴むかで、
それに近づく為に遅いも早いもない。
はず。
人生の勝利とはなんだ。
あの敗戦が受け入れられなくて、悩んだ。
そのきっかけが「自分に魔球が投げられれば」だった。
それなら大学に行って野球部に入る事にする。
野球を続けて、毎日魔球が投げられるように研究してみようと思う。
野球が好きだから。
どんなに敗北してもやっぱり野球が好きなのです。
だから野球を諦めたくない。
人生の第2章でもない。
青春が終わったわけでもない。
自分の人生は一貫して続いていく。
自分の人生の勝利とは何だろう。
その勝利へ向けた選択が「野球が好きだから」よりもさらに具体的なものになった時。
それを想像したらすごく楽しみになった。
自分の人生を紐解いていくような感覚。
甲子園に行けなくても幸せになれる。
野球を続けても幸せになれる。
野球を辞めても幸せになれる。
きっと何を選んでも勝利を掴めるのだと思う。
ただ、自分の人生は高校3年間のように、そこまで短くはないが、期限がある。
人の命は永遠ではない。
そう考えると、立ち止まっている時間はない。
幸せを感じる方へ、自分で選択して進んでいかなくてはいけない。
高校3年間が終了を告げると同時に、選択肢はさらに広くなる。
自分はその広さに対応するまで時間がかかったのだと思っている。
あの敗北の次の日、すでに進路を決めていたチームメイトは、もしかしたら気が付いていたのかもしれない。
言葉にはしなかったけど、この先の自分の人生の勝利へ向けての選択が出来ていたのかもしれない。
自分にはその選択が簡単じゃなかった。
理解するまで時間がかかった。
ゴールを見失ってしまった。
でももう見失わない。
自分が幸せだと感じる勝利の方へ。
ただひたすらに選択しながら、青い3年間で培った練習や努力を活かして進んでいく。
もしまた迷ったら、何度も自分に聞こうと思う。
自分の人生の勝利を見失っていませんか?
その為の努力や練習は毎日出来ていますか?
今日一日を無駄にしませんでしたか?
あの日の「ゲームセット」がやっと「プレイボール」に変わった気がする。
時間はかかったけど。
その時間は今でも無駄ではなかったと思っている。
社会人になった今。
自分の人生の勝利を掴む努力は出来ているか?
自分の幸せを勝ち取る練習を怠ることはないか?
どうか感想をください。