画面の向こう側より素晴らしい人生を

小言

自分がやられて嫌な事を誰かに喜んでする奴はクソだと思う。

誰かに迷惑をかけて楽しむのは子供の頃にしておけばいい。

大体そこで何度も怒られる。

大人になって、社会を知って、誰かに迷惑をかけることはいけないことだと知る。

でもどこかでその価値観を否定していたりする人がいる。

社会に反することに楽しみを抱く人がいる。

 

私はそういう人が心底嫌い。

 

誰かの幸せを祈るような人間ではないが、

誰かに迷惑をかけるのが「楽しい」と感じることはない。

 

「イタズラ」をして楽しいのは子供。

大人になると「イタズラ」はショー。

見世物になる。

 

遠目で見ている誰かを楽しませる為のショーであれば良いと思う。

 

でも、単にそのイタズラを見て、影響を受けて、身近な人にだけに「イタズラ」を仕掛けてみる。

 

それは、

誰得?

 

迷惑をかけて注目を得られるのはショーだから。

社会の中のショーは特別な瞬間だったりする。

それをリアルな社会の中でやると度が過ぎると犯罪。

 

空気を読め。

 

目立とうとして、注目されようとして、

ショー以外の場面で誰かに迷惑をかけるのは違う。

 

ショーはビジネス。

仕事。

常識や社会を知り尽くした人が作るエンターテインメント。

 

それを真似したいのであれば、

表面だけの「イタズラ」や「過剰」の楽しさだけではなくて、

その奥にあるビジネスを学ぶべき。

 

どうしていたずらをするのか。

注目されたいから。

注目されたらどうなるのか。

目立つ。

目立つと多くの人が見る。

多くの人が見るようになると、それを利用して広告業が成り立つようになる。

 

それはショーと呼ばれたりエンターテインメントと呼ばれたりする。

 

スタンディングオベーション。

大人になったのなら、多くの人に喜ばれる「イタズラ」をしなくちゃいけない。

社会を知ったのなら、多くの人が望んでいる「過剰」を生み出さなくちゃいけない。

 

単純に誰かに迷惑をかけるだけの「イタズラ」なんか何一つ面白くない。

 

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私の人生はノンフィクション。画面の向こうの影響力。

画面の向こう側。

テレビを見たり、ネットで映像を見たりすると「イタズラ」で人々を楽しませるチャンネルがあったりする。

そのイタズラに対して笑うこともあれば「迷惑だな」と感じることもある。

 

まず、

全ては視聴者の為に作られたもので、今目の前で起きていることではない。

 

だからどこかソワソワしながらもそのイタズラに対して笑えたりする。

最近ネットでも動画は盛んになって、「人気」の争奪戦が始まっている。

テレビと違って、なぜかネットは「作られている感」よりも「リアル感」があったりする。

 

素人と呼ばれる人達が個人でチャンネルを持てるからそれこそ「リアル」に感じてしまうのだと思う。

 

でもよく考えると動画をアップしているっていうのは「誰かに見てもらう」と想定して作られていたりする。

最近では編集も秀逸になり、より視聴者を楽しませる目線に変わってきた。

一昔前だと、あまりにリアルなイタズラから、「迷惑」を誘発して、問題になっていた。

 

それも過ぎ去って、今は仕掛けがたくさん。

 

偶然を装う。

迷惑を装う。

 

エンターテインメントになっている。

 

それに感化されて現実でやってみようと考える人もいる。

メントスコーラなんか流行り過ぎて近くの公園で子供達が駆け回っている真ん中で誰かがやっていたのを見たことがある。

 

クソ程影響されて、それを迷惑だとわかっていながら、「動画でやっていたから興味を持った」と言う理由だけで近くの公園でエンターテインメントではなく、個人的に楽しむ為に仲間同士でやる。

 

なにが面白いのかわからない。

 

それは誰得?

 

誰も得をしていない。

ただ、影響されてやっているだけ。

 

自分で借りたか買ったかの家で、誰にも迷惑をかけない環境でやってほしい。

 

画面の向こうで起きている「イタズラ」を現実社会に持ち出して、

公共の場でやるのは「迷惑」になる可能性がある。

 

それを強行突破する洒落っ気なんていらない。

それを無理矢理「お笑い」にしなくていい。

 

画面の向こうで起きている事を現実社会に持ち出す。

そんなに面白いだろうか。

 

そんなに笑い転げる程のことだろうか。

そんなに幸せだろうか。

 

他にも自分の幸せはたくさんあると思う。

 

フィクション。

この物語はフィクションです。

 

見ればわかる。

どんなにリアルだと言われても、

画面の向こう側で作られた映像を流しているだけ。

 

映画でもフィクションと書かれている場合がある。

わざわざ映画館に行って、作られた映像を見に来ているのに、

画面には「フィクションです。」なんて書かれている。

画面の向こうにある物語がフィクションじゃなかったらなんだろう。

「ノンフィクション」っていう映像でさえ編集されているのに。

 

全てはビジネスを意識して作られている映像。

結果的にお金儲けで溢れている。

 

フィクションだろうがノンフィクションだろうが、「見て楽しむもの」なんじゃないだろうか。

 

それに影響を受けて現実世界に持ち出してしまう人がいるから、

「この物語はフィクションです。」

なんてわざわざ書かないといけない。

 

ありゃ「嘘ですよー」って言っているわけじゃない。

 

現実社会に持ち出して迷惑をかけてしまう人がいるから、

その原因が「自分達が作った映像ではないです。」っていう証明をしているようなもの。

 

「フィクションだって言ってるんで…。それでも影響を受けて現実社会で同じことをやってしまう人がいるとは思えなかったです。」

 

っていう逃げ道を作ってあるようなもの。

 

だって書いてあるのだから。

書いてあるのにそれをやってしまったら、

「その本人が悪い」って言える。

 

画面の向こうはそのほとんどが編集されている事実は誰もが知っているはずなのに。

 

フィクションを真似して現実社会で迷惑をかける。

 

誰得?

 

誰も得をしない事に一生懸命になるって、

なんも面白くない。

誰にも影響を与えない。

 

ただの迷惑でしかない。

 

楽しませたくて作っている映像に「フィクションです。」なんて書かせちゃ可愛そう。

逃げ道を作らないといけないなんて仕事が増えてしょうがない。

 

規制があるとつまらない?

最近のテレビは規制があるからつまらないと言われている。

まさに「フィクションです。」状態。

 

どんなに編集をしても、現実社会に悪影響を与える可能性があるものはぶった切られてしまう。

 

何が良いのか悪いのかは基本的に自分で決めるのはわかっている。

だけど「圧倒的にダメだろう」と思われるものは自分で排除してきたつもり。

 

最近では「圧倒的に大丈夫」と思われるものしか放送されないらしい。

 

「圧倒的に大丈夫なフィクション」しか放送されなくなるのだろうか。

 

もう意味がわからない。

 

社会的に見て「良い子ちゃん」しか表に出て来なくなる。

「良い子ちゃん」が優秀になる。

 

それはそれでいいんだけど、

現実社会にはコンプラがあるようでない。

 

画面の向こうよりも残酷な言葉や大きな困難がある。

映画みたいに自分の人生を数時間にまとめられては困る。

それ以上の経験をするのに。

画面の向こうよりも遥かに素晴らしい世界がある。

 

現実社会に規制なんてあるようでない。

だからこそ苦悩するしチャンスがある。

画面の向こうにある世界を見ることは経験の一つでしかない。

 

影響を受け過ぎだし影響力を持ち過ぎ。

 

だからこそ規制が必要になったんだと思っている。

規制をしたらしたで「面白くない」と言う。

未だに大きな影響力を持とうとしている。

むしろまだまだ大きな影響力を持っている。

 

私は現実社会で生きている時間の方が長いし、貴重だと思っている。

 

テレビやネットで流れる映像は自分の人生を豊かにするツールの一つであって、

大きな影響力はその他の人間関係や価値観に少しは影響するものの、そこまで大きくはない。

 

いつまでも画面の向こう側から大きな影響を受けている場合ではない。

 

自分の人生の方がよっぽど大事。

画面の向こうがそんなに気になるなら、

コンプラ、コンプラと規制に嫌気が差しているのなら、

テレビなんて捨ててしまえばいい。

ネットなんて見なければいい。

 

そもそもこっち側が影響され過ぎているだけだと思っている。

 

現実社会の方がよっぽどリアルで、よっぽどコンプラが無くて、よっぽど面白い。

人生の面白みなんて自分で見つけた方が楽しいに決まっている。

 

めちゃくちゃ幸せなら勝手に笑みも出てくるはず。

画面の向こうに自分の人生はない。

あれはエンターテイメント。

 

リアルな世界で生きていくヒントを得るのは良いけど、少し影響を受け過ぎてしまった。

だから規制ラッシュになる。

 

私は画面の向こうよりも面白い人生を作りたいと思っている。