「人生に近道なんてない」とずっと言われ続けてきた。
何かを達成した人のインタビューを見ていても、
「誰よりも努力をした。」
とか言う。
私はサッカーが好きで、小さい頃から友達と一緒に練習していた。
それなりに上手だったと思ってはいるが、もっと上手な人はたくさんいた。
サッカーの練習が終われば、友達の家に行ってゲームをしたり、しゃべったりしていた。
同じサッカー仲間の中で、唯一、プロサッカー選手になった人がいる。
小さい頃からずっと上手だった。
だからいつも注目されていた。
そして、練習が終わった後、一緒に遊んだ記憶がほとんどない。
練習が終わった後は大人に混じり、違う場所でまたサッカーをしていた。
二言目には「もっとサッカーが上手になりたい。」と言っていた。
私もサッカーは好きだった。
でもプロになるような人達と同じ練習をしていたら、きっとサッカーが嫌いになっていたかもしれない。
練習が終わって、友達の家で遊んでいる時間の方が好きだったような気がする。
プロになる程ストイックに練習と、自分に向き合えなかった。
サッカーをする事で仲間が出来る。
練習が終わると遊びに夢中。
結局遊びの延長にサッカーがあった。
今になってわかったような気がする。
努力っていうのは「本気で向き合ってから」始まる。
練習と努力は一緒になって初めて効果を発揮する。
目標を達成する為に必要なのは、努力だけでなく、練習だけでもない。
本気で向き合って、考えながら練習をすること。
それをどんなに苦しくても続ける力。
今ではそれが「努力」なんじゃないかと思っている。
努力の正体。
挫折や失敗や後悔を含む。
「努力」と口に出すのはすごく簡単。
ただ、努力の結果を示すのは難しい。
結果を出せなければ口だけの「努力」になってしまう。
「結局努力してないじゃん。」
結果を出せなければなぜか「努力をしていない」と判断される。
「努力」を口に出す時や、目標を口に出す時は、それなりの結果が出せると思って望むのだが、見事に失敗や挫折になる。
今までの努力がまるで水の泡だったかのように消えていく。
他人の評価は結果が全て。
結果を出すまでの過程を知りたいと思うのはその後。
人は結果を出したからこそ過程を知りたいと思うもの。
もうこれは必然。
だからといって当の本人の努力が全て消えてしまうのかと言われるとそうではないと思っている。
むしろ消えないと信じたい。
どんなに挫折しようが、どんなに失敗しようが、どんなに後悔しようが、「努力をした事実」と「達成出来なかった結果」は残る。
結果を見てみれば目標に辿り着けなかったのかもしれない。
でもちゃんと結果は出ている。
その結果がたとえ目標とはかけ離れていたとしても、目標へ向け前進したはず。
努力はしたはず。
目標に辿り着かなかったから全てが無駄になるわけではない。
そこで得たものを今後どのように使っていくのか。
一度は目標を諦めたとしても、次は現実的な目標を立てるようになるかもしれない。
全く違う目標を掲げたとしても今回努力した方法を活かせるかもしれない。
無駄な努力なんてない。
「努力」には挫折も失敗も後悔も含まれていると私は思っている。
そして、挫折も失敗も後悔も立派な結果だと思っている。
努力に裏切られるなんてあってはならない。
努力は裏切らない。
そうじゃなきゃ世の中がチートだらけになる。
そんなはずはない。
努力は必ず今後の力になる。
私は今でも努力の力を信じている。
練習なら誰にでも出来る。
ひとつの目標を掲げて、見様見真似で練習を始めてみる。
そこまでは誰かが教えてくれることかもしれない。
誰かが教えてくれるのであれば簡単に出来たりする。
もしくは教えられてもうまくいかないかもしれない。
思ったよりも遥かに難しいことだったのかもしれない。
でもとりあえずの練習であれば誰にでも出来る。
そこからさらに「掲げた目標」をどのように達成していくのか。
練習の方法も含めて最短で目標を達成する為に出来ることを考える。
それを実行する。
私はその方法を考える為の「練習」だと思っている。
練習というのは努力をする方法を定める為にするものであって、練習をするだけで目標が達成出来るわけではないと考えている。
子供の頃、サッカーが好きで、プロを目標として掲げ、仲間と共にそれなりに練習を続けてきたが、今だにプロにはなれていない。
今は違う目標を掲げて、練習しながら努力する方向を見定めている。
あの時仲間と共に励んだ練習も同じ。
きっと自分には磨かなくてはいけないスキルがあっただろうし苦手な練習もあったはず。
それを「わかっていてもやらない」のはただの練習。
「プロになる」目標を真っ先に達成するのならそこから更なる努力は間違いなく必要であった。
練習をしているからこそ気が付く自分の「苦手」や「得意」を目標を達成する為にどのように扱うのか。
苦手を克服するのか得意を伸ばすのか。
目標を掲げ、それを最短で達成する方法を練習から学ぶ。
だからこそ練習は誰にでも出来るんだと思っている。
練習こそ努力への入り口のような気がする。
練習しなきゃ努力の方向なんてわからない。
悔しくなきゃ。意地にならなきゃ。
練習を続けていると、それなりに自分が成長しているのを感じる。
それでも上には上がいる状況。
自分よりも遥かに優れている人がいる。
もし練習を通じて、努力の入り口に立てたなら、
私は今自分がいる状況、上には上がいる状況を「悔しい」と感じる。
練習をして、楽しみを覚え、目標を掲げ、これからその目標へ向け努力を開始しようとしている。
そんな状況でまだまだ上には上がいる。
普通に練習をしていても追いつけない現実は誰がどの角度から見ても明らか。
それを何とかしたい。
何とかする為に考える。
考えながら練習する。
考えながら練習を重ねてさらに上手になっていく。
だからこそ悔しい。
練習を通じて、その先の目標に「手が届くかもしれない」という実感が出て来るからこそ悔しい。
先に上にいる連中と肩を並べて向き合えるのがいつになるのかわからない。
それを最速で実現する為に私が取る方法は一つ。
練習の頻度と精度を上げる。
練習をしながら「効率よく成長出来る練習の方法」を考えていかなくてはいけない。
今までやっていた練習は当たり前にこなしながらさらにスキルや精度を磨いていかなくてはいけない。
そうじゃないと上にいる人達に追いつけるはずがないし、追い越すなんて到底出来ない。
意地になって今までの練習を増やすだけではいけない。
精度を上げていかなくては。
それが出来れば普段の練習の効果を何倍にも上げられるかもしれない。
効果が上がれば結果的に最短で目標の達成を実現出来る。
悔しいから意地になって、練習していく内に精度や頻度も上がる。
必ず目標を達成したいのなら、悔しい想いも意地になる気持ちも味わう。
積み重ねていった努力には個人的な想いが絶対に含まれていると思う。
自分の「努力」を見つける。
誰かが成功や達成の為にやってきた「努力」が自分に合っているのかはわからない。
それでも人は、
「努力」の結果である。
と言う。
私の中で、
「努力の結果」はすごくざっくりな表現。
毎日練習をしていく中で、考えはめまぐるしく変わるし、努力をしていく方向も変わる。
失敗や挫折や挑戦や成功の経験を元にどんどん修正していくはず。
それなのに「努力の結果」と言われてしまえば、誰かの真似をしながら自分なりの努力を探すしかない。
考え方も、体の形も、性格も、一人一人違うのだから、自分に最も合った努力の方法がきっとあると思っている。
でもそれは一日でわかるような事ではなくて、練習を当たり前に続けながら日々考えて、疑問を解決したり、チャレンジしながら失敗を重ねることで見出していくものだと思う。
努力は思ったよりも複雑に出来ている。
誰かが言う「努力の結果」はその人だから出来たことなのかもしれない。
誰かが達成した結果にだけ注目すると「努力」はブレる。
そしてそのギャップに落胆する。
「自分には才能が無いのかもしれない。」
でも悔しいから、まだ諦められないから、
自分に合った「努力」を見つけないといけない。
自分だけの「努力」を探さないといけない。
それは間違いなく日々の練習から学ぶものであって「ひらめき」や「才能」だけで見つけるものではない。
私は、自分に最も適した努力をまだ知らない。
でも、
それを手にした時、
なんでも達成出来てしまうような、
妙な自信に満ち溢れるのだと期待している。
もし何かを達成したのなら言いたい。
「努力の結果です。」
どうか感想をください。