偽物だとしても

小言

自分が強く影響を受けたものを「真似」したくなる。

子供の頃からずっとそうだった。

親が言う事を真似てみたり。

テレビで見てたヒーローを真似てみたり。

ドラマでかっこいいと思った仕草を真似てみたり。

好きなモデルと同じ格好をしてみたり。

好きなアーティストの歌い方を真似てみたり。

憧れの人物の考え方を真似てみたり。

 

多くの「ものまね」から自分がちょっとずつ作られていく。

 

いまだに「ものまね」をしながら生きている。

どこかで「ものまねされる側」の事を考える。

 

単純に「すげー人だなー」と思う。

 

初めは誰にも真似されないような人だったはず。

…。

考えてもわからない。

どうやったら影響力を持つような人になれるのか。

地道な努力?

 

憧れて、「ものまね」してたら、そういう人に自分もなれるんじゃないかと思ってた。

 

そういう夢があったりした。

ちょっと大人になるとわかる。

 

「自分はなんか違うような気がする。」

 

真似たくなる人と自分との間にはすごく差があって、仕草を真似ても、髪型を真似ても、話し方を真似ても、結局その人にはなれない。

 

超当たり前だけど、「ものまね」ばかりしてるとわからなくなる。

 

「自分もあの人のようになれるかもしれない!」

 

って思っちゃった。

近づくことは出来るかもしれないけど本人にはなれない。

なんなら友達に「ものまね」を見破られ、恥ずかしい思いをした事もある。

あれはマジで恥ずかしい。

恥ずかしくて一度「ちげーし!」って否定するものの、

本当は真似してて、改めて超恥ずかしくなる。

 

それに今もまだ真似をしながら生きている。

 

大人になってもなぜか「憧れの人」っていうのはいつもいて、その時々で自分に影響を及ぼす。

 

つまり、いまだに私は偽物なのです。

 

偽物がゆく。

本物の傍らに。

偽物のイメージっていうのは「ぱちもん」だ。

ダサい。

コピー。

紛い物。

 

人はこぞって「本物」が正義で偽物を排除しようとする。

偉そうに。

 

モノに対してはそうかもしれない。

 

安くても「本物」にそっくりなら買ったりするくせに。

「本物が迷惑がる」からと排除する。

 

偽物が悪いわけではない。

偽物を作るのにもそれなりのクオリティが必要になる。

「偽物職人」なる者もいる。

その職人はすげー。

でも闇だ。

 

闇になるのには理由がある。

「偽物を使って悪だくみ」をする奴がいるから。

だから闇になる。

闇にしたのはそういう悪い事を考えてる人の心。

 

本物はがんじがらめで、偽物を寄せ付けないようにしてる。

ブランディングして見事にいつも頂点に立つ。

唯一無二の存在であろうとする。

だから偽物が作られるんじゃん。

と思う。

 

誰もが本物と認める傍らにはいつも偽物がある。

本物であれば本物である程、偽物がついて回るんだと思う。

 

私はもちろん本物の傍らでついて回る偽物の役。

関東に生まれ、育ちも関東。

今日も「なにがやねん!」と誰かに言う。

テレビで見た芸人が同じことを言ってウケてたから。

ものまねしたらウケると思って。

 

今でも使う。

解説する人。

私のような関東育ちが使う関西弁をいちいち、

 

「あれが一番嫌いだわー。」

とか、

「逆に恥ずかしいよねー。」

とか、

 

誰かにわかって欲しいのか、

「それあるあるー!」

って共感が欲しいのか知らないが、

解説入りで、周囲を巻き込んで自分の価値観をぶつけてくる奴がいる。

 

別にそれに問題があるわけじゃないけど、

他の人を巻き込む必要はないじゃないか。

結局巻き込まれる人が増えると、

逆に、

「みんながイヤって言ったら乗っかるサムい奴っているよねー」

って対照的な位置に行く可能性だってあるのに。

 

「批判する解説者」を「批判する一般人」みたいな流れになる。

そして「批判する一般人」に「賛同する解説者」みたいなのも出てくる。

 

こんな事されたらどこに着地すればいいのか。

 

一番最初に発信する人が絶対に負ける展開になる。

「否定する事を否定したらそれが共感される」

って、

最初に否定した人めちゃめちゃ叩かれる。

 

恐くて怖くて、本物がなんなのかわからない。

結局多くの票を獲得した方が強いっていうなら、

偽物にもやり方によっては本物を超えられるってことになる。

 

「考え方はそれぞれだと思うんですけどね…。」

 

っていう前置き。

言わなくてもみんなそうなのにいちいち前置きをする。

前置きをしないと勘違いされてしまうから。

と言う。

勘違いをされてしまう…?

本質が見えなくなってしまうということだろうか。

 

勘違いしてなにが悪い。

私のこれまでの人生なんてほとんどが勘違いだ。

 

そういう事を解説するとまた叩かれる。

尖った意見を言うと叩かれる。

解説する人って大変。

誰かが発信したものに対して自分の価値観をぶつけてるだけにしか見えないけど。

 

批判されりゃ偽物だ。

解説して、批判されたら、「偽物の解説者」になる。

 

それでも解説者であり続けようとする。

偽物は発明。

本物っていう考え方に個人差があっちゃいけない。

個人差があればさっきの解説者のように「本物だったはずが偽物になる」可能性がある。

そういうのは本物になり切れない。

叩かれる。

本物を語ると、

「いやいやいや!」

と否定される。

主に最近じゃSNSで。

自分が有名になればなるほど否定される。

荒れる。

炎上する。

 

「本物の車は?」

 

って言われても個人差めっちゃあるじゃない。

 

「本物の椅子は?」

 

って言われても個人差めっちゃあるじゃない。

 

高額過ぎて手が出せないってのもあるし。

 

もし、自分が「鉄」なら、

「車は全部、ぜーんぶ加工してある偽物じゃー!」

って言うかもしれない。

 

もし自分が「椅子に使われている各部品の素材」なら、

「椅子は全部、ぜーんぶ合体させただけのプラモデルじゃー!」

って言うかもしれない。

 

そこに許可も取らないで既存のブランド名なんかつけちゃったら大変。

 

どれが偽物かわからなくなる。

 

同じ素材で、同じブランド名が付いてて、同じデザインでも加工している人は違う。

 

さて、どれが偽物でしょうか。

 

偽物は発明だな。

 

偽ブランドっていうのは今も無くなってない。

偽物だとしても。

うちのおばあちゃんが少し前に他界した。

いつも、

「先に逝ったおじいちゃんにもらった唯一のものだからねー。」

と大切に使っていたバッグがあった。

 

「ブランドものなんだわー。」

 

って言ってた。

自慢げに。

その笑顔はなんかいつもムカついたけど、いつも幸せそうだった。

すごく大切にしてたし、いつも持ってたし、何度も修理してもらってた。

雨に濡れないように、食事で汚れないように。

床には置かない。

膝に置く。

おじいちゃんの魂かと思うくらいに大切にしてた。

 

もしそれが愛なんだとしたら、すごく素敵なことなんじゃないかと思う。

 

偽物だろうが本物だろうが宿る何かがあって、それを支えにしてる人がいる。

どんな経緯で作られたかなんて関係ない。

誰からどんな想いで受け取ったか。

おばあちゃんはずっと大切にしてた。

それだけ大切にしたい想いがあったんだと思う。

 

もし私がバッグの素材だとしたら、

「大切にしてくれてありがとう。」

しか出てこない。

 

どんなに素敵で高級なブランド品を持っていてもそれを簡単に捨ててしまう人がいる。

いるのか?

いるんじゃないだろうか。

もしいたとしても、

 

その人が本当に大切にしているものが他にある。

 

あるのか?

あるんじゃないだろうか。

あると思うのです。

 

それがたとえ偽物だとしても。

 

内に秘めた想いは本物。

本物になる日。

私は今日も偽物でゆく。

多くの人から影響を受けて、

身近な人を「ものまね」しながら、

良い部分だと思って真似てみたら、「偽物!」と言われ、

恥ずかしい思いをしながら生きていく。

 

特技なんてものはない。

だから誰かを真似ていないと自分の価値が見出せない。

私から出る言葉は、ほぼ、受け売りで作られている。

 

そういえば良く言われた。

 

「誰かの真似をしている内に自分だけのオリジナルが生まれるものだ。」

 

これは本当なんだろうか。

自分は真似をし続けているのに「オリジナル」を生んだことがない。

これから先も「オリジナル」が生まれる予感は全くない。

だから今日も誰かを真似てみて、何とか生きている。

 

朝起きて歯を磨いて顔を洗うのは親の真似。

お昼に食べるランチは同僚や先輩の真似。

仕事のやり方は上司の真似。

晩御飯のレシピは「みきママ」の真似。

夜になって寝るのは誰かの真似。

 

自分にオリジナルは必要ないのかもしれない。

偽物で作った自分が本物。

なわけあるか。

 

今日も本物を探す偽物がゆく。