私が家族同士の理解を諦めない理由

生活

夏休みになると、子供向けの映画がテレビで放送される。

私が子供の頃は頻繁に「ホームアローン」が放送されていた。

そしてそれを録画。

まだあの頃はVHSだったけど、テープが擦り切れる程観た。

何度も何度も何度も観てた。

もちろん吹き替え版。

今になって思うのはあの時英語で観ていたら、英語を覚える切っ掛けになったかもしれない。

もったいないことをしたなと思っている。

そして、大人もその時は一緒になって観たりする。

子供の頃に観たことがある映画も、大人になってから観るとまたちょっと違った感情が揺さぶられたりする。

もし、あの頃の自分の部屋にタイムスリップ出来るなら、どう感じるだろうか。

あの頃友達と一緒に遊んでいたおもちゃや乗り物、ゲームに好きだったお菓子に先生に怒られたこと。

全く同じ状況になれば思い出せるかもしれないけど、正直あの頃の自分がどんな事を考えて、何を目指していて、周りの大人にどんな感情を抱いていたのか、はっきり思い出せないんです。

そしてそのまま大人になって、親になった。

あの頃の記憶が全て鮮明に思い出せるわけじゃないから、私には子供の本当の気持ちがわからない。

おもちゃもゲームも進化してるし、親としての考え方も地域の取り組みも、教育も変化している。

いつも楽しみにしていたドラゴンボールよりも我が子はいつでも見れるyoutubeを選ぶ。

だから余計にわからない。

でも親になると、理解したいんです。

子供の気持ちから家族全員の気持ち。

家族全員を理解したいのです。

今回伝えたいのは私が家族を理解したいと思う理由について。

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共に生きていく。

家族はこれからも共に生きていきます。

子供は保育園に行ったり、幼稚園に行ったり、学校に行ったりする。

親は仕事に行ったり、近所付き合いがあったり、それ以外のコミュニティを持ったりする。

そういった家庭以外で受けた様々な価値観を持ち帰ってくる場所が家であり家族だと私は思っています。

自分が持ち帰ってくる価値観がネガティブだったり、今の家族にとって必要のないものだったりした時、家族は少しバランスが悪くなります。

バランスの崩れを察知して、喧嘩になったり言い合ったり。

持ち帰った価値観をぶつけ合う。

ぶつかって、理解を得られないとへそを曲げたりする。

あんまり理解してくれないものだから持ち帰ったネガティブを家族の前に出すのをやめたりする。

「伝えてもわかってくれない」とか「言ったところで何も変わらない」とか。

家族と理解し合うのをやめたくなる瞬間だってあるんです。

ただ、私はこれまで家族の前に外から持ち帰ってきたネガティブを出して、ぶつけ合って、たくさん救われてきた。

持ち帰ってくる価値観を巡って多くの議論を繰り返してきた。

その議論のおかげで次の日も前を向いて歩けたりする。

今ではそれが私達家族の在り方だと思っている。

家族としてなにが正しいのかはわからないけど、「これからも共に生きていく為には」って基準が必要な気がしている。

誰かが持ち帰ってきたネガティブに対して、「これからも共に生きていくなら今どうするべきなのか」を常に判断しながらぶつかり合っていきたい。

これから先、家族に言えないことや言いたくないことだって出てくるかもしれない。

子供達は将来的に別の家庭を作っていく中で新たに家族の在り方を見つけていくのかもしれない。

それでもやっぱり「共に生きていく」んです。

家族全員の事を理解するなんてめんどくさいって思う瞬間もあるだろうし、それで新たなネガティブが発生したりするかもしれない。

でも私は共に生きることを諦めたくない。

今すぐに家族全員の気持ちを理解することは出来ないかもしれないけど、「共に生きていくには」っていつも自問自答していきたい。

共に生きることを諦めなければ、いつか必ずみんながお互いを理解出来ると信じている。

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最高のリラックスと最高の集中力。

家族の中で、何かを我慢したり、言えない事が重なると、「自分らしさ」を見失ったりする。

家族と一緒にいる時間がつまらなくなったり、一緒にいることで集中力が途切れたり。

場合によっては「何もしたくない」と感じたりするかもしれない。

家族の存在が嫌になって家庭の外に別の居心地の良いコミュニティを作るかもしれない。

それか別のコミュニティに参加する。

コミュニティと言えばビジネス的な感じの響きになるかもしれないけど、それが決して良い繋がりではない可能性だってある。

誰かに迷惑をかけてしまうような集団の中に居心地の良さを感じてしまうかもしれない。

それは個人的に納得がいかないので、家族でいる時間を最高のリラックスと最高の集中力を発揮できる空間にしたい。

家族の誰かが受験を控えていたり、締め切り間近の仕事を抱えている時には最高の集中力が必要になる場面もある。

隣で最高のリラックスをしている家族がいたとしても気にせずに最高の集中力を発揮出来るような環境にしたいんです。

本人が本人の意思で「リラックス」と「集中力」を使い分けられるような状況を作りたい。

それには家族全員の理解が必要だと私は思っている。

家族の中で一人一人の価値観や状況や考えを共有出来ていれば、お互いが一緒にいても気にならない。

一緒にいるけど独立した存在になれる。

これは家族のように長い時間一緒にいるからこそ成り立つ関係だったりする。

良い意味でお互いがお互いを「意識しない空気感」を作れるようになる。

もちろんそれには互いの理解が必要になるし、それなりの議論も必要になる。

時間をかけてでも家族の中にそういった空気感を作り出せれば、良い意味で干渉しない存在になれると思っている。

隣でどんなにリラックスをしていようが「自分は集中する」と簡単に切り替えが出来たり、隣でどんなに集中していようが気にせずに思いっきりリラックス出来るようになったりする。

他人ではないからこそ出来る阿吽の関係を築ければ、常に自分にとって最大の力を発揮出来るようになる。

友達や仕事仲間と一緒にいると必ず起こる「誰かが誰かに気を使う時間」が無くなる。

そのぶんリラックス出来たり、逆に集中出来たりする時間を作れるかもしれない。

私は「家庭の環境」+「家族の理解」=「居心地」になると考えている。

居心地の良い空間は最高のリラックスも最高の集中力も作り出せると私は信じている。

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お守りになる。

家族一人一人が互いに理解し合っている状況が作れれば、外からどんなネガティブを持ち帰って来たとしても、それを「ポジティブに変えてくれる存在がいる」と思えるようになる。

自分を理解してくれる人がいる。

時には厳しく、時には優しく。

理解し合えていれば、厳しい意見や議論でもちゃんと本音で言い合える関係を作れる。

どんな状況であっても常に本音でぶつかり合える関係。

本来の自分になれる環境が家に帰れば用意されている事実は、外での生活に安心感を与えてくれると思っています。

外で辛い事があればそれを一緒に考えてくれる人がいる。

外で良い事があればそれを一緒に分かち合える人がいる。

一種のお守りみたいな存在になる。

持ち歩くわけではないのに心の片隅でいつも持ち歩いているようなお守り。

どんな場面でもそのお守りがあるから「自分らしく」いられる瞬間が必ずある。

涙が出そうな時、辛い時、嬉しい時、悲し時、悔しい時、幸せな時。

全部の感情を共感出来るのは、互いを理解し合っている家族だからだと私は思います。

他人を理解するのは大変です。

長い時間を一緒に過ごさないと見えない部分がたくさんあります。

でも家族はずっと一緒。

理解出来ないわけがない。

そして理解し合う事が出来れば毎日の生活の中で心強いお守りになる。

家族と理解し合えれば他人とだってきっと理解し合えるって思える。

私は家族の存在をお守りにしたい。

だから全力でぶつかるし全力で受けとる。

ネガティブだろうがポジティブだろうが理解出来るまで話し合いたい。

人はいつだって必ず繋がりを持って生きていく。

生きていれば誰かに裏切られたり誰かを裏切ったりするかもしれない。

誰かに傷つけられたり誰かを傷つけてしまったりするかもしれない。

その度に悩んだり考えたりする。

自分の事が嫌いになったり好きになったりする。

立ち上がれないくらいショックを受けたりする。

泣きわめいたり、大暴れしたり、家に帰りたくない時もある。

お守りっていうのは、なぜかそういう時に限って目の付く場所にあったりする。

私は家族にとって「わが家」がそんな存在であってほしいと願っている。