「食」と「記憶」と私のハードディスク

生活

最近家で料理を作るようになった。

唐揚げも麻婆豆腐も、ラーメンも、牛丼もタコライスもハンバーグもオムレツも卵焼きも作ってみた。

「美味しい!」って思うこともあれば「イマイチだな」って思う料理もあって、基本的に家族に対して作っているから「味の好み」も偏るかもしれない。

自分で作る料理がどれほどの味なのか、「誰かに食べてみてほしい」って思うような料理が出来上がることもある。

料理って、奥が深い。

手が込んだ料理が美味しいと感じることもあれば、素材そのままで美味しい料理もある。

「時間をかければ美味しくなる」ってことでもなさそう。

「包丁の使い方一つで刺身の味は変わる」と料理人が言っていた。

同じ素材でも火加減だけで味は天と地の差が出る。

らしい。

歯ごたえや舌ざわりにこだわり出したら料理の鉄人を目指し始めているかもしれない。

「料理」ってのは奥が深いんです。

それでいて、生きるのに必要不可欠である食事。

いたるところに飲食店やスーパーや居酒屋がある。

「お店」と言えば、「飲食」って思えるくらいメジャー。

そこで出される料理。

飲食業界は絶対に無くならないどころか、これからも成長していくんじゃないだろうか。

私がそう思う理由について少し話したい。

と言うか、「食」がどれだけ私達にとって大切かを伝えたい。

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大切な時間を演出する。

例えば今付き合っている大好きな人にプロポーズをする時。

大切なデートの時間。

仕事で打ち合わせをする時。

節目に行う打ち上げ。

まだまだたくさんある。

その人にとっての大切な時間。

「大切だ」と感じる瞬間は人それぞれだけど、やっぱり「飲食店」が選ばれることが多い気がするんです。

少し豪華なレストラン。

お洒落なカフェ。

個室完備の居酒屋。

通っているお店。

私達の身近にはいつでも飲食業があって、この業界は衰退することはなく、むしろグングン伸び続けている。

時代に合わせて様々な食材を見つけたり、季節ごとに種類を変えたり、新しい料理が生まれたり。

そして、大切な時間を演出してくれるツールみたいな位置づけにもなっている。

大切な時間を自慢の手料理でさらに楽しくするのも良い。

ホームパーティーやバーベキュー。

どれも楽しい。

私達が「大切に過ごしたい」と思う時間にはいつも「食」がそばにある。

料理の種類も気分によって変えられる。

和食。

中華。

イタリアンにフレンチにインドにベトナムにシンガポールにトルコにロシア。

変幻自在。

「今日は居酒屋?」

「今日はカフェでランチ?」

「フレンチなんてどうでしょう?」

「食」は大切な時間を演出する時、結構良い仕事をするんです。

雰囲気もお店や出される料理によって変わる。

「食」は「楽しみ」の点でも奥が深い。

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全く同じ料理でも味が変わる理由。

先日妻にこんな事を言われました。

「ここで食べるカレーは美味しいね!」

たぶん、同じカレーでも「どこで」食べるかによって味わいが変わると言いたいのだと捉えた。

最初は「味は普通だろ」と返していたのですが、最近になって思うことがある。

確かに、同じものを食べるとしても、「どこで」食べるかによって味わいが変わるかもしれない。

旅行先の旅館で先に温泉に入り、浴衣を着てから大食堂に行って飲む瓶ビール。

全く同じビールを飲むにしても、家で飲むよりも、なんだか「美味い!」と言いたくなったりする。

味は同じなんだと思う。

でもいつもより美味しい。

って感じる。

食っていうのは食材だけにあらず。

きっとロケーションや心の持ちようで味わいが変化するのかもしれない。

思い出してみると、まさに青春期の私は、家に帰って食べた唐揚げで涙が出そうになったこともある。

色々あって…。

たぶんそれ。

あの時真っ先に妻に否定した「同じ味だろ」は撤回したい。

「確かに味わいは変わる」と。

大好きな人と一緒に食事をすると、いつもより美味しく感じることもある。

逆に緊張して味がしないことも。

「どこで」だけじゃなくて「誰と」でも味わいは変わるのかもしれない。

「食」の不思議。

と言うか味覚の不思議かな。

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味と記憶。

人間には五感があって、それぞれが記憶に通ずる機能を持っていたりする。

「覚えている」「思い出した」って脳で感じる時、音楽だったり、写真だったり、感触だったり、味だったり。

「食」は舌で味わうものだから、時に懐かしい記憶を蘇らせてくれたりする。

分かり易いのが子供の頃に食べていたお菓子。

当時は駄菓子と言ってたかな。

私が子供の頃は駄菓子屋さんが必ず学校の近くや公園の近くにあって、少ない小遣いを握りしめながら友達とワイワイ楽しみながら選んでいた記憶がある。

今の私にはまだ新鮮な記憶だからいつでも思い出すことが出来るんだけど、もし、自分が年老いて、子供の頃の記憶が曖昧になってきた時にもう一度あの頃の駄菓子を味わってみたいのです。

もしかしたら鮮明に思い出すかもしれない。

90歳になっても、100歳になっても、まだ生きているかわからないけど、自分が子供だった頃の記憶。

駄菓子屋さんに友達と一緒に買いに行って、近くの公園で少年ジャンプを読みながらブランコで食べていた「きなこ棒」とか。

と、言うよりも思い出したいのです。

妻と「このお店は美味しいね!」って言いながら何度も行ったラーメン屋。

「たまにはこんなお店にも来ようね!」って言いながら特別な日に行ったレストラン。

きっと歳を取れば私の記憶は曖昧になる。

凄く大切な事、大切な気持ちも忘れてしまうかもしれない。

そんな歳になったら、是非、私を公園へ連れて行って口に「きなこ棒」を口いっぱいにぶち込んでみて欲しい。

私の脳には都合の良いハードディスクは入っていない。

だから古くなった記憶と回転が遅くなった脳みそではどうしても思い出せない大切な事もある。

それを思い出せないんだから「忘れていく悲しみ」も無い。

でも口の中をきなこまみれにしたら思い出すかもしれない。

その時に隣にいてくれる人が最愛の人であってほしい。

きなこまみれの口から出る言葉が「ありがとう」なのか「愛してる」なのか「楽しかったなぁ」なのかわからないけど、今の私にはどうしても忘れたくないことがたくさんある。

大切にしたい思い出がたくさんある。

「食」をどうにかハードディスク代わりに使えないものか。

自分の人生を使って試してみたい。