どうして自分の家族はこうなんだ。
腹が立つ。悲しい。嫌いだ。
家庭の外の環境が変わったり、自分意外の家族の生活に触れたりすると、自分の家族はどうしてこうなんだろうと感じる時がある。
自分という人間が確立されていく中で違和感を覚える。
自分がいる環境や社会と深く繋がるようになるとあまりに露骨に感じてしまう。
そして家族が嫌いになっていく。
家族は小さな社会。
家族の中でも決まりがあったり、当たり前に行われている事がある。
考え方や感じ方。
家族の中にいると自分という個人がありながらもその社会の中のルールに順応していかないといけない。
子供の頃は家族が社会の全てであった為、自分の中に違和感を覚えない。
それが家族の外の社会に触れるようになり、違和感を覚えていく。
「自分の家族とは考え方が合わない」
大きな社会に出るとそれを痛感する。
何が違うのかもはっきりわかる。
それを変えようにもそこにあった家族という社会の繋がりを否定してしまう可能性がある。
簡単には変えられない。
家族という社会の中では自分一人が異質の存在になってしまうから。
社会は異質な存在を認めない。
今までもこれからもそう。
大半の人間が認めない限り、大きな問題にならない限りその形を変える事はない。
もし家族の社会を変えたいのであればそれなりの社会現象が必要になる。
大問題にしなければならない。
そうまでして家族を変えたいと思うだろうか。
また、そうまでして本当にいい方向へ家族が向かうだろうか。
自分が望むような変化を遂げるだろうか。
家族という社会は一番身近にある。
だからこそかけ離れた社会を持っていると嫌いになる。
そしてそれを違う方向へ導くのはいつもその社会の一番力を持った人間。
その人間が今も一番の力を持っているなら今すぐに変えるのは難しい。
これから生きていくのは家族という社会ではない。
家族との関係がいかに崩れていようとも、あなたが生きていくのは今生きている大きな社会であり、家族という小さな社会ではない。
家族という社会は年代と共に変わってきた。
外の社会と同じように先祖から変化を繰り返してきたのである。
これからも家族という社会の中に居座り続けるのであればこれまでのマインドを学ぶべき。
しかしほとんどの人はそうではない。
新しく家族を作る。
これまでのマインドとは別のものを作る人もいる。
外の大きな社会に触れ、新しいマインドを持って家族を作る。
どちらが正解というわけではないが、外の大きな社会を基準として捉えていなければ家族の社会は外の社会とは別になる。
別にしてしまえば外の社会に触れた時の考えやその時の感情がついていかない。
そして大人になるにつれて外の社会との繋がりを持たなければ生活をするのも難しくなる可能性がある。
社会とは常に一番上に立つものがいる。
だが、多くの民が意見を述べ、常に平等であるように作られている。
多くの人がその均衡を保つために意見を述べ、それについて議論される。
政治家という社会のバランスを保つ為の仕事が存在する。
一方小さな社会はどうだろう。
家族の中で絶対的な決定権を持っている人が全てを決めてしまう傾向にある。
そうなると議論をするどころか、一方的な社会主義になる。
圧倒的な力でねじ伏せられてしまう。
決定権すらないのだ。
決定権を持たない家族の中の人々がこれから生きていかなくてはいけないのは小さな社会ではない。
外の大きな社会。
それを理解しているのであれば「家族が嫌い」という感情を持っても不思議ではない。
大きな社会の在り方。
家族の一員として居心地の悪い社会に無理やり住み続ける必要はない。
外の社会で仕事をし、自ら家族を作る自由がある。
外の社会で仕事をせず、生活が出来なければ家族の一員として小さな社会で生きていくか別の選択肢もあるだろう。
それを決める権利は自分自身にある。
外の大きな社会は家族という小さな社会を含む。
つまりたくさんの家族を抱えている状態なのだ。
家族という小さな社会の問題も実は外の大きな社会の問題でもある。
例えば家族の中で自由をあまりにも阻害されるのであれば外の社会へ相談するための窓口もある。
小さな社会で起きている事を外の社会へ相談しても構わないのだ。
家族が嫌いであればどのような選択肢でもそれを支えてくれる所がある。
市役所や区役所もそういった相談の窓口がある。
家族が嫌いという感情があるとしても外の大きな社会でそれを否定する事も肯定することもない。
あなたという一個人を尊重する。
あなた自身を守ろうと力を貸してくれる。
それが外の大きな社会の在り方。
家族と個人を一緒にはしない。
全ての地域に、大きな社会を知る場所がある。
大きな社会で一体どんな事が起こっているのか。
どんな制度があるのか。
今問題視されていることがどんな事なのか。
それを知る機関が全ての地域に用意されている。
外の大きな社会を知る術はたくさん用意されている。
社会は常に問題が山積み。
どの社会であっても常に問題は山積み。
一つ解決すれば一つ問題が出てくる。
その繰り返し。
問題が出ればそれを蔑ろにも出来ない。
それで困っている人がいる。
個人を尊重する以上それを蔑ろにすることは出来ない。
個人を尊重する社会を無くしてはいけない。
だからこそ問題が山積みになる。
意義を唱える者がいる。
だがその意義がさらに良い社会を作る。
問題が無くなれば社会のバランスは崩れる。
問題は山積みでなければいけないのだ。
意義を唱える者がいなくなれば社会の進化が止まる。
意義を唱え、それが解決されれば更なる意義を唱える。
問題があればあるほど良くなる。
改善策が見つかれば見つかる程社会は進化する。
全ての個人が納得のいく答えを常に模索しなくてはいけない。
家族という小さな社会でも同じように議論を繰り返すべき。
どうすればより良い家族でいられるのか。
そういった意見を述べ合うべきなのだ。
小さな社会でも大きな社会でも問題は山積みな方がいい。
その方が進化するからだ。
家族全員が気持ちよく暮らせる家族になる道は問題を解決すること。
その問題を突っぱねて議論にもならない家族を好きと言える個人はいない。
個人レベルでの問題から社会レベルの問題になる。
小さな社会での問題が大きな社会での問題になる。
大きな社会で問題になっている事が解決しようとしている今も個人での問題が新しく生まれている。
大きな社会が進化すれば新たな個人の問題が生まれる。
それを繰り返していく。
繰り返しているわけではない。回りながら上へ。
進化を繰り返すスパイラル。
時代をさかのぼった過去も現在も同じように問題を抱えながら、解決しながら、同じように見えるが徐々に変わってきた。
自分が嫌いだと思う家族が急に好きになる事はないが進化する。
家族もまた進化していくもの。
いつの時代も家族の生活も螺旋を描きながら進化してきた。
新しい家族を作っても、代々引き継がれた家族でも、それは同じ。
必ず進化する。
全く同じ考えを持った個人などいないのだから。
考え方に違いがあって当たり前。
大きな社会の中であっても小さな社会であっても、考え方に違いがあって当たり前。
個人の集まりである以上全く同じ考えを持つ人の方が少ないのだ。
自分が問題視していることでも他の人にとっては問題視しない。
社会の大小に関わらず全く同じ考えになる事の方が少ない。
「家族はこうあってほしい」という考えがあるのであればそれもまた、小さな社会である以上本来難しい事なのだ。
小さな社会である以上家族の中で全てをわかり合う、解決し合うというのも難しい。
全員が問題視している事であればもちろん意見を出し合うだろう。
ただそれが一人だけが感じていることであれば話は別だ。
全員が問題視していなければ話し合いの場を設ける事も難しい。
それでも問題は常に一人の個人から生まれる。
社会を変えたいという考えを強く、常に抱えているのであれば家族全員が問題視するべき。
忘れてはいけないのは意見が違って当たり前だという事実。
それでも解決したい。変えなくてはならない。
そう感じるのであれば行動を起こす以外に方法はない。
自分のわがままや自分の利益を優先しているわけではなく、大きな社会とのズレを直す為に。
「自分の家族はどうして…。」
と感じる部分は大きな社会とかけ離れているかどうか。
もう一度考えてみてほしい。
優先すべきなのは自分自身。
もし自分の家族が大きな社会とかけ離れた考えを持っているのであればそれを変えるべきかどうかを考えていかないといけない。
だが、先ほどの通り家族とは言え個人の集まり。
家族を大きな社会の流れに合わせる為の努力が今の自分自身にとって本当に必要かどうか考えなくてはいけない。
家族が必要かどうかということではない。
あなたがこれから生きていかなくてはいけないのは大きな社会になるからだ。
それだけの力と時間を家族に費やすべきかどうか。
一番優先すべきなのは自分自身が大きな社会の中で作っていく生活。
家族を大きな社会の流れに合わせていく努力も必要かもしれないが、優先順位を決めておかなければいけない。
自分自身の生活も家族の社会化も失っては意味がない。
守るべき順位とも言える。
その順位がはっきりしない内に行動を起こしてしまえば迷いを生み、傷つくかもしれない。
自分自身が大きな社会の流れに逆らう形になるかもしれないのだ。
自分自身が大きな社会からはじき出されてしまえば、小さな社会を変える事は難しい。
大きな社会を知らずに小さな社会は変えられない。
あくまで優先するべきなのは自分自身だ。
大きな社会の中に自分がいるかどうか。
家族を嫌いな理由にもよるが、自分の生き方、またこれからどうやって生きていくのかという考えが大きな社会の流れとうまく噛み合っているかどうかが大切。
これは当たり前の事を当たり前に出来るというわけではない。
今の大きな社会に求められているものがどんなものなのかなんとなく理解出来ているかどうかである。
人との接し方。
仕事の存在価値。
社会との接点。
自分が大きな社会とどうやって付き合っていくかという考えが大切。
そしてその考えが今の社会の先にあるものかどうか。
予言ではなく、自分なりに理解出来ているかどうか。
そしてその考えを述べられるかどうか。
家族という小さな社会に異議を唱えようとしているのであればそれを納得させられるくらい自分が小さな社会の在り方を理解していないといけない。
同じ考えを持っていない相手に対して自分の考えを納得させるくらいの理解度やそれ相応の理由が必要になる。
具体的に家族が嫌いだと感じる部分。
そしてそれをどうすれば改善出来るのか。
尚且つ自分自身は大きな社会の中での居場所を確保する。
それが整うまではそのままでも構わない。
全てが整った時、それなりの説得力が増す。
これはお金持ちになる方法をお金が無い人が教えても説得力が無いのと同じ。
自分自身が大きな社会の中で力を発揮出来ているかどうか。
そしてそれなりの結果を出していること。
その結果を持って嫌いだと感じている家族に意義を投げかける。
確固たる証拠がある状態でそれを認めない家族という社会があるなら完全に孤立しているような状態。
ガラパゴス状態。
その価値観を変えるのは難しい。
家族が嫌いという理由も頷ける。
それでもあなたは自由である。
家族という社会の中で、深く傷つき、自分を否定されるのは辛い。
そして外の社会に触れた時、その違いに気が付く。
そして大きな社会の中に自分の居場所を見つける。
決して順序が間違っているわけではない。
決してあなたが間違っているわけではない。
そういう流れの中で進化を遂げたのだ。
あなたは間違いなく進化している。
小さな社会の中ではなく、大きな社会の在り方を知り、その中で生きていく術を身に着けた。
そうなれば新しい家族を作る事も出来る。
間違った社会は必ず無くなる。
間違ったままの社会は正される。
誰もが意義を唱える。
あなたはあなたが掴んだ生活や幸せを全力で守るべきだ。
家族が嫌いでも幸せになれると実証している。
あなた自身がその証拠だ。
正しいのはあなたが幸せでいる事。
あなたが幸せでなければ他の人に幸せを説くことなど出来ない。
大きな社会の中でその流れに身を任せながらも逆らい、時に流され、様々な知恵や考え方を得る。
その中に「家族が好き」が必要でなければそういうこと。
どう考えても本当に必要なのは大きな社会の中で、あなた自身が幸せであること。
そしてその方法だ。
家族が好きでも嫌いでもあなた自身が幸せだと感じる事を優先すべき。
どうか感想をください。