非常識についていく覚悟

生活

世の中には多くのアレルギーがある。

多くの人が知っているのは一度は聞いたことがあるアレルギーがほとんど。

食べ物や金属などの物質。

そして日光。

紫外線アレルギー。

私はまさにそれを持っている。

食べ物などのアレルギーはない。

紫外線はダメ。

 

このアレルギーにはレベルがあって、段階を追うごとに太陽の光を浴びられる時間が短くなっていく。

最高レベルは太陽の光を浴びると死に至る。

 

私のレベルはそこまで高くはない。

でも肌や目にダメージを追う。

だから自ら進んで日光に当たる生活は送らない。

 

真夏の海。

多くの人が訪れて、ワイワイそれぞれの楽しみ方で浜辺をエンジョイしている姿をテレビで見る。

真冬のゲレンデ。

雪山がこの季節はゲレンデと呼ばれ、白銀世界で雪の斜面を滑り降りる。

 

私は両方共多くの日の光を浴びる為にNGとなる。

 

日光と言えば夏のイメージだけど紫外線で考えると太陽が出ているだけでダメなわけで。

たまに冬だからとスキーやスノボに誘われるのだが、基本的には同じ。

顔や目も含めて完全防備にしなければならない。

 

一緒に滑ってるのに表情がわからないと面白くないんじゃないかと思っている。

だからやっぱり自ら進んで白銀の世界に飛び込むこともない。

 

たまに私が持つアレルギーを知って、なんだか「可愛そうだ」と言う人がいる。

 

自分は持たないアレルギーを持っている私の事を知って、「普通ではない」と感じたのだと思う。

普通の生活が送れないと思われている。

 

大丈夫。

逆に日の光にあまり当たれない生活が普通だと思って生きてきた。

 

だからなるべく発症を避ける術を知っているし、それなりの対応は出来る。

普通に接してもらって構わない。

 

問題は私のアレルギーではない。

 

さも自分が健全で、当たり前だと思っていること。

 

文句を言いたいわけではない。

そうじゃない人からしたらそれが普通で、多数決で多い方が「普通」だと決まるのなら自分がいざ聞いたこともないアレルギーを持った時のショックは大きいんじゃないかと思う。

 

とは言っても人類は様々な進化を遂げてきた。

 

意味がわからないアレルギーの一つや二つは絶対にある。

まだまだこれから新たなアレルギーが現れる。

 

今までの常識なんていうのはあっという間に覆される。

 

そうやって人は進化してきた。

これからも進化していく。

 

いつも非常識の中に進化のかけらが眠っている。

 

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常識を覆す非常識。

常識なんて文化みたいなもの。

「これまでの常識では…」

なんて言い方をされると、その常識は誰が決めたのだと返したくなる。

でもそうだったのだから仕方がない。

大昔の考え方もその一つ。

「女性なら…」とか「男性なら…」とか。

「○○しなければならない。」

と言われ続けてきたんだと思う。

 

最近街中で、黒いランドセルを背負った女の子を見かけた。

たぶん一昔前では考えられないようなことだったと思う。

「女の子は赤いランドセルでなければならない」

みたいな常識があった。

 

そもそもランドセルの色なんてなんでもよくて、好きな色を選べばいいと思ったのだろう。

ランドセルであることは間違いないし。

 

知らない間に常識として頭にインプットしてある情報が書き換えられる。

アップデートされたような感じ。

 

まだまだある。

常識。

文化に近い。

「ずっとこうしてきたんだからこうだよ!」

と意義を唱える暇もなく与えられたものがたくさんある。

 

そこに「意義あり!」と言わんばかりに突撃して、周囲の人々を圧倒的な説得力で納得させる。

「確かにそうだな。」

と思わせればそれが新常識になる。

 

男性だから、女性だから、と当たり前に決められていたことに意義を唱える。

そもそも同じ人間なのにどうして制限されてしまうのか。

自分の中での常識が非常識を勝手に拒んだりする。

 

常識を覆すのはいつも非常識なのに、それをなかなか認められないなんて。

と思っている。

 

「一人一人性格や個性があって素晴らしい!」

と言っておきながらも全体的な常識はいつもどこかにあって、そこから逸脱すると軽蔑されたりする。

 

それを個性と捉えるのか、非常識と捉えるのか。

そもそもその考えも性格で違うのに、いったん話題に出てくればまるでワイドショーのように常識ありきの意見をぶつけ合って騒ぐ。

 

ワイドショーの考え方も文化みたいなものがあって、

ずっとそんな感じの意見をぶつけ合うようになっている。

 

最近テレビの視聴率が著しく低下しているらしい。

 

私もネットで好きな動画を観ることが多くなってきた。

自分が観たい情報を観たい時に観たいだけ観れる方が有利。

そういうチャンネルが個人で持てる時代になっている。

 

テレビ局を個人で運営するような感じ。

視聴者が自ら選んで観るのだから今はまだ大きな規制はない。

そして、それが仕事になる人もいる。

ユーチューバーなんてまさにそれ。

 

そっちの方が「面白い」と感じる人が増えたのだから認めざるを得ない。

 

それをテレビ番組を作る人が真似てもどうしようもない。

文化が鈍足にしている。

 

常識ってなんだったんだろう。

文化みたいなものかもしれない。

 

人が進化すれば時代も変わる。

 

男どもが刀を持っていた時代にスマホの事を考えていた人がいたら、

なんて非常識な人だっただろう。

 

でもそういう時代はやってきた。

 

常識や文化に「ダメだ」と思っているわけではなくて、

「もっと良いもの」に変えていかなくちゃいけないし、

「すでに良いもの」としてずっと残すべきものだってある。

 

その辺りの見極めの方が大事だと思っている。

 

ダメな常識、良い文化。

世の中には「これおかしくないか?」と思うような常識や文化がまだまだたくさんある。

逆に「これはずっと残していきたいね。」と思うようなものもたくさんある。

 

全ての常識や文化に対して「非常識をぶつけてみよう」と思っているのだとしたらただのヤバい奴だと思う。

 

様々な常識を覆す非常識が多くなると、法律が間に合わなくなるのがすごく心配。

後々追いついて来るとは思うが絶対に空白の時間が作られる。

 

私が思うに法律は絶対的な常識を持っていて、いつも最高の権利を掲げている。

 

ただ、いつまでも同じ法律でいるわけではない。

 

覆されれば進化する。

 

進化していく。

 

追加されるものもあれば変更されるものもある。

そうであってほしいし、そうでなければ困る。

 

進化をしていく過程で、人はずっと同じじゃいられない。

でもずっと同じであって欲しい部分もある。

 

複雑過ぎてこれ以上考えても混乱しそう。

 

とにかくダメな常識もあって、良い文化もある。

今は良い常識だと言われているものが来年にはダメな常識になっているかもしれない。

今はダメな文化だと言われているものが来年には良い文化になっているかもしれない。

 

「本当にそれでいいのか?」

「こっちの方が良くないか?」

 

っていうのはいつも考えていたい。

 

でも結局その「良い」「悪い」を決めるのはごく少数の偉い人だったりする。

 

そういうのも覆される時が来るのだろうか。

 

合わせていく覚悟。

少し前まで、携帯はタッチ式ではなくて、ばっちりボタンをプッシュするようなものだった。

もっと前では携帯を持っている人もそんなにいなくて、メールじゃなくて、手紙だった。

電話なんて固定電話で個人にかけるような感じではなくて、会社や家にかけるものだった。

SNSなんてとんでもない。

手紙の交換時代からすると、もう良くわからない世界。

 

携帯が出来て、それが進化して、電話だけじゃなくなって、様々な事が出来るようになって、

SNSが誕生した。

 

携帯を持たない人が未だにいる。

その人からしたらSNSまで辿り着くのにどのくらい時間がかかるだろう。

別に必須のツールじゃない。

それが無くても生きていける。

ただ、「持ってない」のは非常識の部類になってきた。

「知らない」のは非常識の部類になっている。

 

これからもそういうのに食らいついていく覚悟は必要かもしれない。

 

どこかで、誰かが、意義を唱えて、

誰かを納得させて、

新しい常識が作られていく。

 

昨日までの常識が今日は非常識になるかもしれない。

 

でもついていかなきゃいけない。

 

非常識についていく覚悟はあった方が良いと思う。