お互い大人になると兄弟喧嘩は素晴らしい延長戦に突入する

生活

兄弟げんかっていうのはもう30を超えてくると…無くなるね。

うちは男兄弟。

2人。

小さい頃はバトったな。

思い出します。

殴り合い。

物の投げ合い。

 

「ぶっ殺してやるー!」

 

って言いながら殴り合ってた。

でも気が付けばお互いに家庭を持って別の地域で生活している。

色々あった…と思う。

もうそのほとんどを思い出せないのです。

記憶喪失ではない。

今を生きるので精一杯なのです。

そうなるとちゃんと生活が出来ているのであれば干渉する切っ掛けもほとんどない。

きっと「実家」というものがなければ連絡を取り合うことも、顔を合わせることもほとんど無くなるんじゃないかなって思う。

別に嫌いじゃない。

でも慣れ合うのも違う気がする。

本当にピンチになればきっと助けてくれるし助けるのだと思う。

でもそうならないってことは幸せでやれている証拠なのだ。

だからお互い何も連絡が無い方が逆に安心している。

連絡が来ると逆に

 

「なんかあったのかな?」

 

と心配になると思うのです。

うちはそんな男兄弟。

兄弟喧嘩に明け暮れてもそれなりに今はお互い幸せにやっていけてるっていう証明。

連絡をしないが少し、本当に少し、超ヒマな時に「なにやってるかな?」って思うくらいでちょうどいい。

そんな関係。

生きてりゃ絶対交わることになる。

その時まではお互い干渉しなくても大丈夫。

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兄弟はどんなに喧嘩してもどんなに仲が悪くても大人になります。

どんなに頑張っても兄弟なんです。

それが気持ち悪いなら会わなければいいし必要なら相談すればいい。

兄弟である事実がなんか心地が良いと思う時もあればそうじゃない時もある。

どうしても兄弟なのです。

互いにどのような付き合い方をしていくかはそれぞれだけどそれでも兄弟なのです。

好き勝手な弟と真面目な兄。

お互い兄弟とは言え別人。

そら喧嘩もしてきた。

意見の食い違い、価値観の差。

些細な事で喧嘩する。

 

最近はあんまり喧嘩しないな。

 

と親が感じたのはいつだろう。

気が付いたら喧嘩もしなくなった。

無駄な事を話さなくなった。

たまに実家で一緒に酒を飲もうにもほとんど会話はない。

酒を注ぎ合って飲むだけ。

でもなんかそれでいいような気がする。

子供の頃は性格も違うし、考え方も違うから衝突する。

ねじ伏せようとする。

認められない部分を徹底的に叩きたかった。

でも少し大人になると正解がたくさんある事に気が付く。

真面目だろうが身勝手だろうがそんなのは価値観だから別に干渉しなくなる。

それなりにやれているっていう事実さえあればいいのだ。

私たちは大人になった。

そうなると黙って酒を飲んでいてもなんか落ち着くものなんだと思った。

男兄弟は恥ずかしい。

普通の事を普通に聞くことが恥ずかしい。

なぜだか恥ずかしいのです。

だからどんな仕事をしているかは親から間接的に聞いてはいるものの詳しい仕事内容までは知らない。

それを直接本人に聞くわけでもない。

たくさん喧嘩をして来て、拳で語り合った分だけ大人になると無口になるのかもしれない。

いや。

単に恥ずかしいのかもしれない。

たくさん喧嘩したからこそ「相手に興味がある」という事実が恥ずかしいのです。

不器用に殴る蹴るでしか会話をしてこなかったこと。

何もかも否定し合って生きてきたからでしょう。

ここに来て別々の生活を築いているとさすがに気になる。

でも聞かない。

恥ずかしいから。

あんなに仲良く色々な事を経験して、たくさん喧嘩して、大人になると別の家庭を築く。

なんか、全てが懐かしい感じと共に、現状は知らないっていう意味がわからない感じ。

大人になると空白の時間が作られる。

その空白の時間を知りたいとは思うがなんか恥ずかしい。

そういうものなんだと思う。

元気にやっているならそれでいい。

たまに気になるけど結局何も聞かない。

きっと今は働き盛りな年齢ということもあって、最も疎遠な時期なのかもしれない。

もう少し歳を重ねたら、もう少し子供が落ち着いたら、きっともう一度歩み寄ろうとするのだろう。

その時がいつになるのかわからないし、お互いそうしたいのかの確認も恥ずかしいからしない。

でも元気にやっているならそれでいい。と思える今があるのならきっと悪い方向には進まないのだと思う。

 

「何か困ってることがあれば連絡してくるだろうな。」

 

とどこかで思っている。

きっと向こうもそのくらいの意識だと思う。

連絡が来ない内はきっと元気でやっているだろう。

そのくらいの気持ちでいる方がちょうどいい。

ある意味兄弟らしいというか友達には無い感覚がそこにはある。

恥ずかしいっていうことだけじゃなく。

話もしないのに、なんか「元気でやってるのか?」っていうくらいに気になる。

これが男兄弟っていうものなのだと思っている。

なんともあやふやな距離間いるのです。

近づくかと思わせて近づかない。

遠ざけると思いきや遠ざけない。

元気でやってりゃそれはそれでいい。

連絡が来ても別に拒まない。

どんなに喧嘩をしても結局は大人にならないといけない。

生きていく為にはずっと子供ではいられない。

子供というのは親の手がかかる内ということ。

だとすれば私たちはまだ子供なのかもしれない。

どこかで心配されているのなら手がかかるのと同じだ。

だから親から見たらずっと子供のままと言われるとぐうの音も出ない。

でも兄弟は違う。

自分が親にでもなろうものなら自分の子供に手がかかるからだ。

生活をしていかなくてはいけない。

家族を守らなければならない。

背負った分だけ自分が大人でいなくてはいけない。

生きていれば背負うものがどんどん大きくなる。

圧倒的に現実的な挫折や苦悩が待っている。

一筋縄ではいかない。

そうなる度にまた考え方や捉え方を学ぶ。

子供の頃は喧嘩をしていれば解決出来ていたことも頭を悩ますようになる。

経験の中で解決出来る策を探すようになる。

殴り合うのが子供というわけではない。

時にまた私たちは殴り合いの兄弟喧嘩をするかもしれない。

それでしか解決出来ない問題も無きにしも非ず。

そうなった時はもう一度思いっきりぶん殴るのだろう。

そういうのも含めて大人になる。

結局成長と共にお互いが大人にならなくてはいけない。

子供の頃はときめいていたものでも今になると何も感じない。

むしろいらない。

何があったのかわからないけどそんな感覚です。

兄弟喧嘩もしなくなる。

そして大人にならなければいけなくなる。

自慢する相手として存在し続ける。

大人になればなるほど別々の生活を送ることになる。

ずっと一緒にいた頃は空白の時間などない。

同じ屋根の下でいつも一緒に生活をしている。

その日に大体何があったのかわかるのだ。

それが別々の生活をしているとわからなくなる。

そしてたまに会う。

そうするとその空白の時間になにがあったのか気になるっちゃ気になる。

別に聞かないけど。

でも、

 

「本人にとって本当に良い事や自慢したい事は自分から恥ずかしがってでも話す。」

 

この存在になる。

自慢するのだ。

 

「自分はこんな事をした。そしてこんな結果になった。どうだ。」

 

と言わんばかりに空白の時間のベストな自分を見せびらかす。

もちろん控えめに。

そういう存在になる。

そういう存在がいてくれるのだ。

なんてありがたいことだろう。

例えば1年に一度だけ会う機会が正月にあるとする。

その空白の1年にどれだけワクワクすることや自慢出来る話を持って来れるか。

それが男兄弟のおみやげ合戦なのだ。

物のやり取りなんてつまらない。

「自慢」である。

この自慢に影響を受けるのは間違いなく男兄弟だからであってそういう存在で居続けてくれることに感謝している。

今年はどんな話を持っていくのか。

その為の挑戦は、

 

「またな!」

 

と伝えた瞬間に始まっている。

間違いなくこれは兄弟喧嘩の延長戦だと思う。