カーテンを開けるといつもと変わらない景色に救われる瞬間がある。
人は生きているとそれなりに落ち込んだりする。
人間関係、仕事に学校。
どれもこれもめんどくさくなって投げ出したくなる。
でもやらなきゃいけないことがあるのはわかっている。
だからカーテンを開ける。
カーテンを開けたら昨日とほとんど変わらない景色。
自分は落ち込んでいる。
でもカーテンを開ければ世の中はそんなことはなさそう。
自分の悩みが世の中から見たら大きいのか小さいのかはわからないけど。
自分の中では一大事。
マジで落ち込んでいる。
落ち込んでいなければ「カーテンを開ける」動作を気にすることなんてない。
でも今は、あえて、「カーテンを開ける」を意識している。
落ち込んだ時にしか見えない何かがあるのかもしれない。
調子が良ければ目につかない部分にも気が付いたりする。
車が走ってたり、雲がたくさんあったり、
飛行機が飛んでたり。
別に普通。
言葉にする程の事ではない。
そのくらい普通。
それがなんか、癒される。
自分が落ち込んでいるから。
落ち込んでいる時にしか気が付かない事がある。
それは人の優しさだったり自分が持っているプライドだったり。
なんとなく過ごしていると気が付かない「それ」は、
自分に何かが起きないと改めて見ようともしない。
落ち込んでいる程実感してしまう。
自分が生きている今。
悩みとプライドと世界の広さ。
気持ちで視界に入るものは変わる。
仕事でこっぴどく怒られた。
そんな日の帰り道は居酒屋で楽しそうに語りながらお酒を飲んでいる人がなんだか羨ましく思える。
まるで「何も考えていないんじゃないか」と錯覚する程に「平和」に見える。
きっとその人達だって、今日一日仕事をして、それなりに何かあって、その相談の為に同僚とお酒を飲みに来たのかもしれない。
はたまた、毎月恒例の楽しい一日なのかもしれない。
でも落ち込んでいる私にとって、それは「平和」としか目に映らない。
かっこ悪いことに、少し妬んでいるんだと思う。
そんな街中を通り抜けながら、家に帰る。
こんな日に限って誰かと一緒にお酒を飲むことも、誰かに打ち明けることも出来ず、
一人で落ち込んで「どうすればよかったのか」という過去から抜け出せない。
テレビをつけても視界は思考の中にあって、見ているようで見ていない。
作る気がしない夕食はコンビニで買って食べる。
美味しいとは言えない。
落ち込んでいると色んな感覚がちょっと変わる。
視界も、味覚も。
誰かと一緒に観たり、食べたりするなら違ったかもしれない。
いつもはそうは思わないのに、誰かがいてくれる有難みもわかる。
視界も味覚も落ち込んでいる。
自分が落ち込み過ぎて何かを悟り始めたのかと思う。
いつもは部屋で、テレビを付けて、なんとなく観て、笑って、共感して、飯を食べて寝る。
それが一つも手につかない。
私は今。
間違いなく落ち込んでいる。
そして世界は自分の落ち込んでいるフィルターを通したものしか見えなくなる。
だからカーテンを開けてみる。
いつもと変わらない。
世界は落ち込んでなんていない。
自分自分自分。
次の日はあれだけこっぴどく怒られたのだから会社に行きたくない。
少し吐き気がする。
でもいかなきゃいけない。
向かう途中の猫の目線ですらちょっと気になる。
動物の気持ちがわかるわけじゃないけど、少しバカにしてるのかと思ってしまう。
いつもは絶対に気にならない部分にイラっとする。
朝から最悪の気分のまま会社に着く。
仕事を始める。
周りは昨日の事なんて何もなかったかのように仕事をしている。
同僚も、上司も、いつも通り。
たぶんこっぴどく怒られたことを引きずっているのは自分だけなのかもしれない。
自分にとってはすごく大きな出来事だったのに、周りから見たら一晩で忘れられてしまうようなことみたい。
自分が落ち込んだことが間違いだったのか、
それとも周囲の人達がそういう性格なのか。
どちらにしても、昨日カーテンを開けた時と同じような雰囲気が自分を包む。
世の中は回っている。
自分がどんなに落ち込んだとしても、悠然と時間と共に前に進む。
落ち込むと普段は見えないものが見えるような気がした。
良く考えてみたら、落ち込んでいる時は、
自分中心に世の中が回っている時間なのかもしれない。
視界が狭くなると、
普段は気にしない猫の視線に対してイラっとするくらいに心も狭くなる。
思い通りにいかないことが全てイライラする。
まだ落ち込んではいる。
でも、なんかちょっと考え方が変わった。
たぶん、自分の事を周囲の人はそれほど気にしてはいない。
どんなにお洒落をして歩いても、
どんな高級車で街に繰り出しても、
きっとそれを知らない誰かにとっては「カーテンを開けた時の景色」とあまり変わらないのだと思った。
待て待て待て。
落ち込むのは悪いことじゃない。
そこから反省して、修正して、うまく自分のバランスを取ろうとする。
問題は落ち込むことではなくて、
そこに反発しようとして変な形で自分を貫こうとするプライドだったりする。
もしあの日、居酒屋に行って、同僚と酒を飲み交わすような場面があったなら、
「あいつあんな言い方しなくてよくね?」
って怒りながら言っていたんだと思う。
たまたまお酒を飲む相手もいなかった。
だから一人で帰って「落ち込んでいる」を圧倒的に味わった。
誰かに愚痴を聞いてもらう瞬間も必要。
自分では抱えきれないものだってある。
ただ、「あいつあんな言い方しなくてよくね?」っていう言葉は紛れもなく自分の意地みたいなものが働いて、
カッコつけているんだと思う。
「落ち込む必要なんてないじゃん!」「自分らしくいこうよ!」
って自分に言っている。
「俺間違ってないよな?」
って誰かに言ってほしい。
認めてもらいたいんだと思う。
大した反省もしないで次の日を迎えるところだった。
失敗したことを認めないで次のステージに進もうとしていた。
「私は仕事で失敗して、それに対して叱られただけ。」
それに対して落ち込んで、反発する心を持って、プライドで打ち消そうとした。
待て待て待て。
そうじゃない。
どう頑張っても、速攻で反省して修正、理解出来ない部分があったらその場で質問をして、納得がいくまで話し合うべきだったのかもしれない。
それをするのがどうしても嫌だっていうのは自分に対して、仕事に対して、叱ってくれた上司に対して、
失礼な事をしているのかもしれない。
自分のプライドのせいで成長するスピードを遅くしているような気がした。
やっぱりあの日、落ち込みながらも、カーテンを開けてよかった。
冷静に考えて、落ち込んだ理由を飲み込めない時間を作るより、失敗したことを反省してすぐに修正する努力をした方が有意義な時間だったのかもしれない。
勘違い勘違い。
それなりに色んな事を経験しながら生きていくと、自分を過信してしまう瞬間がある。
それはひん曲がったプライドになったりする。
プライドは必要だと思うけど、それをフィルターをかけるように通して見た世界は、無意識で自分に都合よく作り替えられる。
落ち込むような事が起きれば、一度プライドというフィルターを外して世界を見てみないといけない。
誰かが言う「世界は狭い」っていうのは、たまたま海外旅行中に友人に会った経験を元にしているものだと思う。
その経験から「世界は狭い」っていうのは自分の中のプライドみたいなものになって、
いつの間にか、「世界は狭い」っていうフレーズは自分の中で当たり前になる。
経験もしたし、その証拠も自分で持っている。
でも逆に、経験から「世界は広い」と考える人だっている。
その人の経験を捻じ曲げることなんて出来ない。
お互いに経験をして感じた事。
「これが答えだ!」っていうプライドになっている。
そのプライドを通して見た世界が広かろうが狭かろうが、
自分の中の世界の話であって、全ての人に共感してもらえるようなものじゃない。
あの日、言ってしまいそうになった、
「俺は悪くないよな?」
とか、
「あんな言い方しなくて良くない?」
っていうのは自分中でプライドのフィルターを通している。
プライドは持っていても構わないけど、
サングラスみたいに取ったり付けたり出来るようにしておかなくちゃいけないんだと思う。
ほとんどの場合、
赤の他人の経験など、
どうでもいい。
いや、
どっちでもいい。
落ち込んだ時にカーテンを開けて外を見てみる。
そんなに私の事を「自分のように」気にしている人はいない。
それだけ。
たぶん私の中に世界を勘違いして認識している部分がたくさんある。
自意識過剰な部分がたくさんある。
それを指摘された時に、落ちこんだりもするけど、
落ち込んだ時こそ、プライドを外して言われた事を理解しなくてはいけない。
素直に言われたことだけの答えを導き出せる。
自分なりの意見や誰かの意見を合わせて答えを導き出していけると思う。
私はまだカーテンを開けただけ。
これからプライドを取ったり付けたりする練習をしていこうと思っている。
サングラスみたいに。
どうか感想をください。