意地を張ってなにが悪い。
意地は張る為にある。
意地がなければ成し遂げられない事ばかり。
意地を張って、無理をして、自分を追い詰めて、追い詰められて、それを突破していく。
私の取り柄は小さな意地がひとつだけ。
本当はすごく小心者だから。
意地を張らないとうまくやっていけない。
むしろ普段の生活の中でのプレッシャーで押しつぶされてしまう。
そのくらい小心者。
だから意地を張る。
意地になってやる。
それが出来なければそもそも小心者だった自分に更なる追い打ちがかかる。
それでも意地を張り続ける。
それくらいしか取り柄がないから諦められない。
意地を張るのをやめてしまったら。
ただの小心者になってしまう。
だから今日も意地を張る。
私にとって意地っていうのは、最後の砦。
自分の中の最強のディフェンダー。
意地が無ければきっと何も出来ない。
意地を張るから頑張れて、意地を張るから努力出来て、意地を張ってきたから今がある。
意地っ張りの小心者が厳しい社会の荒波に流されて溺れないように踏ん張っている。
小心者でなにが悪い。
それでも頑張ってる奴もいるってどこかで誰かに伝えられるなら。
誰かの背中を少しでも押してあげられるなら。
どこかで誰かの支えに少しでもなっているなら、意味はある。
私は今日も小さな意地を張る。
小心者の生きる道。
声を大きく、はっきりと。
そもそも小心者であることは自分が一番良くわかっている。
それは一時的にテンションを上げても家に帰れば元通り。
結局のところ「小心者」という根本は変えられない。
どんなに一流の人に憧れを抱き、どんなに自信を持って生きていくことを望んでも。
自分のポテンシャルでは到底かなわない。
諦めたわけじゃない。
むしろそんな人がいるからこそ違う道もあるんじゃないかと思っている。
小心者だから、何かひとつだけでも取り柄があったらそれに支えられたりする。
挨拶をはっきりと大きな声で。
それだけで少し変わった。
小心者だけど、そのくらいなら出来ると思った。
だから思い切って誰よりも元気に挨拶をするようにした。
「朝からうるせーなー。」
と言われる。
でも、
「いつも元気をもらえるよ!」
とも言われる。
きっと、自分の中で何かに打って出る時に、起こる現象なんだと思う。
誰かに影響を及ぼし始めた時。
それが想像とは真逆の反応でも、続けてみようと思った。
たった一言、少し頑張っただけで、それを続けただけで、自分にとって嬉しい事が起きる。
もちろん真逆の意見も受ける。
「うるさくても元気を与えられているのなら。」
「うるさい」よりも「元気を与えられている」影響の方が大きいと思った。
だから続ける。
そしたら笑いながら、
「うるさいよー。」
って言われるようになった。
笑っているけど「うるさい」らしい。
なんだか微妙な気持ち。
だけどこれは「プラス」だと捉えた。
だからやめない。
どんなに小心者でも元気に挨拶をする「一瞬」くらいなら頑張れる。
これは意地。
どんなに「うるさい」と言われてもやめなかったら、喜ばれるようになった。
そしたら余計にやめられなくなった。
誰かを元気づけられているってのは、「自分が必要とされている部分」なのかもしれない。
小心者らしい「ちいさな意地」で存在価値を。
少しでも、
誰かを元気に出来るなら良しとしなきゃ。
小心者のくせに贅沢はいかん。
出来る。やります。
「元気な挨拶」が功を奏したのか、明確なきっかけが何なのかわからないが、誰かに何かをお願いされることもある。
誰かに何かをお願いされて、その「やるべきこと」が今の自分にはクリアが難しいものだとしたら。
たぶん少し前の自分なら断っていると思う。
それは今の自分にはとても大きな仕事の依頼だった。
でも小さな意地を続けて掴んだチャンスだと思った私はその依頼を受ける。
ここで断ってしまったら、結局「挨拶だけの小心者」になる。
挨拶だけの小心者。
そんな響きはダサい。
せっかく「挨拶」を何もない小心者の自分にくっつけることが出来たのだ。
それならもうひとつ。
欲張ってみてもいいんじゃないだろうか。
「やります!やらせてください!」
今、自分には求められていることがある。
「お願いされる」のは大したことじゃないかもしれない。
かもしれないけど、
今の自分にとっては、それだけで、なんだか嬉しかった。
小心者だから、誰かに声をかけられるだけで少しドキドキしてしまう。
それでも小さなな意地を持って、何とか掴んだ「誰かに求められる」っていう価値。
それの価値を目の前にして手を伸ばさない選択肢はない。
次は信頼を掴みに行く。
後日。
この挑戦はことごとく失敗に終わる。
見事に信頼は築けなかった。
誰かの期待は背負えずに、がっくりを肩を落として降ろすことになる。
さらに後日、挨拶の声も少し小さくなった。
仕事だろうが人間関係だろうが、期待に応えられないというのは結構ショックだ。
「今なら出来る!」と自分を信じてみたがダメだった。
励まし。
「どうした?今日は元気ないな。」
そりゃ元気もなくなる。
請け負った仕事をこなせないまま元に戻った感じ。
結局期待されていない位置に逆戻り。
声も小さくなるわ。
「まぁ。あの。大丈夫です。」
そんな感じの返事になってしまった。
仕事が出来なかったことを隠そうと必死になっていた。
小心者の私は意地を張るのもやめ、いつもより余計に猫背になる。
「みんな心配してるぞ。元気出せよ。」
ん?
それはどっちの心配?
仕事が出来なかったこと?
それとも声が小さい方?
「仕事は残念だったな。またチャンスはあると思うけどな。」
仕事の方か。
仕事の方を心配してくれているのか。
ということは、
期待されて渡された仕事が出来なかったから「挨拶」の声も小さくなったと思われている。
ダメダメだ。
本当にただの小心者に戻ってる。
それじゃあダメだ。
せめて挨拶はちゃんとしよう。
いつも通りやろう。
そこはクリアしたはずなのに、
一度の失敗で全てを失ったような気持ちになった。
しかも誰かに心配される程に。
ああ。
そういうことか。
こうやって積み上げていくしかないのか。
「3歩進んで2歩さがる」
わかった。
挨拶は仕事の失敗とは関係ない。
挨拶は自ら「やろう!」と意地を張って続けていたこと。
これは続けなくてはいけない。
誰かに心配されていたら次の仕事も、チャンスも、きっと自分のところには回ってこない。
意地でも声を張らなきゃいけない。
それだけは死守。
励まされて気が付くこと多し。
というか励まされたこと今までなかったな。
想われるってありがたい。
感謝の言葉。
挨拶っていうのは「おはよう!」とか「こんにちは!」だけじゃない。
気がする。
「申し訳ございません!」も「ありがとうございます!」も挨拶ではないのか。
それくらいなら自分でも出来る。
悪いと思った時には全力で申し訳ない気持ちを伝える。
ありがたいと思った時には全力で感謝の気持ちを伝える。
もし、「自分は悪くない!」っていう意地を張ってたら、
謝らないんだと思う。
もし、「頼んでないことだから!」っていう意地を張ってたら、
感謝しないんだと思う。
私の意地は「ちょっと元気に挨拶する」ってこと。
簡単に言えば、誰にでも出来るでしょう。はい。
でもなぜかそれをずっと続ける人は周りにいない。
不思議といない。
もしかしたらもうそんなところは通り越しているのかもしれない。
自分は周りと比べて取り柄がない。
小心者だからいつも誰かの影に隠れているような存在。
そう思っていたからこそ、
根本的な「大きな声で挨拶」しか続けられなかったのかもしれない。
今は、それで良いと思っている。
少し元気に挨拶が出来て、少し元気に感謝の気持ちが伝えられて、本当に申し訳ない気持ちを持って、伝わるように謝罪をする。
こんな初歩中の初歩を「自分のプライドがあるから」と言ってちゃんとやらない人。
それでも結果叩きつけて見返す人。
結果で信頼を得る人。
自分にはそんなセンスも勇気もない。
なにより自分には似合わない。
挨拶を「初心」と言う人もいるかもしれない。
でも今の私にとっては全て。
なんなら「取り柄」そのもの。
その部分だけは意地を張らないといけない。
誰よりも小心者だけど、唯一の「取り柄」は意地でも守らなくてはいけない。
いや、
意地を張って守らなくてはいけない。
ダサい意地だと言われようが、構わない。
それしかないなら守るでしょうが。
私は誰よりも少しだけ大きな声で挨拶をする。
誰よりも少しだけ大きな声で感謝の気持ちを伝える。
誰よりも少しだけ大きな声で謝罪の言葉を伝える。
それを約束としてずっと守り抜く。
いつか自分にしか出来ない仕事が貰えるようになるといいな。
どうか感想をください。