社会はいつも中心にある

小言

基本的に人はわがままで、気まぐれだと思っている。

誰かと何処に行くにしても、誰かと何かを食べるにしても。

本当はわがままで気まぐれだったりする。

 

「こうしたいのに!」

 

そう思うこともある。

あるけど我慢する。

子供の頃はそれが我慢出来ずに「わがまま」と捉えられていたけど大人になると、

どうしても我慢しなくてはいけなくなる。

そういう我慢の場面が急激に増えるような気がしている。

大人になっても「わがまま」でいることは恥ずかしいと思われているから。

 

確かにそう思う。

 

やることなすこと「わがまま」を言っていたら先に進まない。

 

子供の頃に覚えた我慢があるからこそ、今、こうして生活が出来ていると言っても過言ではない。

我慢することで後々思い通りにいったりすることもある。

 

だけど本能的に「我慢している」っていう自覚がいつもある。

 

家で、一人でいる時は何も我慢しなくていいのに、

外に出たり、誰かと一緒にいると気まぐれに物事とを決めると変な空気が流れる。

 

うまく調和を取りながらやっていかなければならない。

 

大人になって、社会に出てみると、その我慢はより一層強くなったように感じる。

それでも守らなくてはいけない自分の生活の為を想えば、どこかそれが「当たり前」だと感じる。

 

社会の中で無理やりにでも取ろうとしている全体のなんとなくな調和を「自分の中」でも取らなくちゃ。

 

わがままな時があったり、気まぐれが許される環境にもたまには行きたい。

 

その為に毎日頑張っているんじゃないのか。

 

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社会の中での自分らしさ。

基本的に自由でいたい。

ここで言う自由っていうのは、「ストレス」を感じないってことで、

例えば平日は仕事で一週間を目いっぱい頑張って、

週末を迎えた時の気持ち。

 

「休みだ!」

 

その休みで何をするのかはどうでも良くて、

仕事から解放されたような気持ち。

あれは結構「自由」を感じたりする。

 

でも休日だって構わずに働く人もいる。

 

その人だって少なからず「自由」への想いはあるはず。

どうして休日も働くと決断したのか。

 

その先に自分が思い描く「自由」がきっとあるはず。

 

逆に、

ずっと休みが続いていると、

「何かしたい!」

「なにかしなきゃ!」

と感じるようになるかもしれない。

 

「休み」であることがストレスになったりする。

 

そうなれば外に出たり、仕事をしたり、誰かに会ったりする。

それをすることで「ストレス」が無くなる時もある。

 

結局どっちに転んでも、自分が思い描く「ストレスフリー」を目指しているような感じがする。

 

人によって環境に違いはあれど、価値観は様々で、

とにかく「自分がストレスを感じない方向へ」物事を進めたいと考えている。

 

そしてその価値観が「みんな同じではない」からこそ世の中はうまくいっているんだと思う。

 

各々方向が違う方へ自由を感じるからこそ何もかもうまくいっている。

 

そんな考えでいると誰かとぶつかることがあるかもしれない。

 

もし言いがかりをつけられたとしよう。

 

その相手。

 

「言いがかりをつける」っていうストレス解消法を持っているのかもしれない。

 

ちょっと迷惑だと感じるけど、

「ストレスを発散する」っていう根本は同じような気がする。

 

逆にそういう言いがかりをつけられることで「ストレス」を感じる場合もある。

 

そうなれば、

そういう環境になるような状況を避けるようになったり、そうならないような術を学んでいく。

 

そうやって社会の中でこそ、自分なりの自由は作られていくんじゃないだろうか。

 

社会はいつも真ん中にある。

たぶん何を選んでも、世界の全ての人から「イエス」をもらうことは出来ない。

どんなに頑張っても出来ないのだと思う。

それは歴史を振り返ればすぐにわかる。

全世界が統一されたことはない。

 

何を願っても、何を得ようとしても必ず反発される瞬間がある。

 

どんな自由を求めても必ず反発がある。

自分が思い描く理想を他人は描くどころか想像することも出来ない。

でもそういった反発に出会う度に多くの事を考えてしまう。

 

「私は間違っているのだろうか?」

 

その確認ですら全ての人からの「イエス」がもらえない。

だからバランスを保ちながらお互いを尊敬し合って生きている。

譲るところがあれば譲れないところもある。

微妙なバランスを保ちながら社会が作られている。

 

誰が作ったのかも分からない社会。

と言いつつ、実は自分達で作っていたりする。

 

自分が持つ「考え」が、社会と呼ばれる平均値から少し違う場所にあったとしても、別に間違っているわけじゃない。

圧倒的に間違っていると思われることは圧倒的な反発を受ける。

社会とはそういうバランスを中間で大きく支える存在であって、

多くの人が願ったり求めている形そのもの。

 

その社会の形そのものに意見をしたいのであれば声を上げるべき。

それに共感する人も出てくるだろうしバランスを保てなくなるのなら反発される。

 

正しいと決めるのはいつも自分でいいと思う。

社会がウザイと感じるならその社会に反発する。

大きく何かが変わる時、

いつもそれは「社会現象」になって騒がれる。

 

社会に新しい価値観が追加される。

 

それを人々が使って精査される。

社会が認めたのならきっと大半の「イエス」を得たと言っていい。

それでも「ノー」を差し出す人がいる。

 

社会はいつも真ん中にある。

 

どっちでもなく真ん中。

その考え方に対して、

イエスだろうがノーだろうが、指標として見定めるのは良い事なんじゃないだろうか。

 

それを見た上で、自分なりの自由を選択していく。

 

自分勝手な自由が悪いと言っているわけではないが、

中央に位置する社会を学ばずにはいられなくなる。

 

「社会」っていう言葉が曖昧で、

学生の時は良くわからないまま勉強していたりする。

 

「歴史」と「社会」はほとんど同じような意味で使っている。

 

「歴史」が「社会」を作ってきたようなもの。

だから余計に曖昧になる。

 

自由でいたいからこそ社会を学ぶ。

 

「それだけ」が正解ではないのはわかってはいるけど、

自分ならそうしたいと思う。

 

自由への想いが社会と歴史を作っている。

誰かの自由への想いが形になって、多くの人を巻き込んで、世界ではいつも色んな事が起こっている。

毎日毎日重大なことが起こっている。

日々世界で起こっていることを頭に入れていけば「社会」を学ぶことには繋がるが、「自由」は少しも感じない。

 

むしろ色んな事が起こり過ぎていて、頭に入れるだけでも精いっぱいになる。

 

それでも頭に叩き込む人がいる。

それも自分の自由の為なら良しとするしかない。

 

「みんながそうするなら自分もそうする!」

っていう人もいる。

これも自分の自由の為。

 

「関係ないね!」

と一蹴する人もいる。

自分の自由を手に入れる為に。

 

全員で社会を作っているんだと思う。

 

難しいことはわからないから「そのままにしておこう」って考える人もいる。

私はそれ。

そのままにしておいても社会はそこにある。

 

自分にはわからないことばかり。

 

大統領に立候補する。

一部上場企業を作る。

友達を1000人作る。

友達なんていらない。

野菜しか食べない。

肉は食べない。

ボクサーになる。

バレリーナになる。

演歌歌手になる。

ファッションデザイナーになる。

ギャンブルが大好き。

 

その人達の事を考えてあげられない。

 

だって、わからないから。

 

自分の物差しで測る事しか出来ない。

それはさすがに失礼だと思っている。

 

どんなものにも価値っていうのはあって、それを決めるのは受け取った本人。

 

そこに「断じて違う!」とは言えない。

だからこそ社会が真ん中に位置しているんだと思う。

 

その真ん中から見て、今自分が求めている「自由」はどんな位置にあるのか。

 

なんとなく見定められたりする。

 

何事も社会の物差しで測られる。

そこで「イエス」か「ノー」かを決めるしかない。

じゃないと全てに対して終わりが見えない議論になってしまう。

 

実際には終わっていないが一旦議論に終止符を打つ。

 

それが中央に位置する社会の価値。

 

それを踏まえた上で、

私が思い描く自由っていうのは何だろう。

 

やっぱりわがままで気まぐれな気がする。