高橋歩みたいな生き方に憧れるのはわかるけどさ

生活

自由っていう言葉ってなんか青空な感じがしますね。

天井が無い家みたいな感じ。

どこまででも自分の足で歩ける感じ。

自由ってすごく響きが良い。

憧れるし自分でもそうなれるってどこかで思ってしまう。

確かになれると思う。

どうにかこうにかして出来るとは思う。

思い立ったらすぐに行動。

出来る…と思う。

思うか。

思うのか。

自由人に憧れて。

高橋歩みたいに自分も生きられるのか?

自由人になるってそんなにすごいことなのか?

特別すごいことなのだろうか。

わからんよ。

俺は思う。

毎日現実と向き合って一生懸命働いている人の方がすげー。

自由人に憧れるのは毎日一生懸命働いてる自分を否定しているようなものだと思う。

称えよう。

高橋歩が唱える自由の真逆を走り続ける自分を称えてやりたいのです。

対抗馬になればいい。

自由人に憧れを抱くのはきっと我々が頑張っている証だ。

スポンサーリンク

自由の逆側で生きる我々をもっと励まし合おう。

逆側って言うと語弊もあるでしょう。

自由っていう決まりがないものに対して逆側もへったくれもない。

でも自由ではない気がする。

よーし。

励まし合おうではないか。

自由を生んでいるのは逆側にいる我々だ。

逆側ではないんだけどね。

でもなんか我慢しているような気持ちになる時がある。

一生懸命仕事をしている中で自由とはかけ離れた生活をしているような気がするのです。

だからこそ自由の反対側にいるような感覚。

でもこれは思ったのです。

全てが自由だったらこっち側はないわけですよ。

こっち側があるから自由がある。

表裏一体っていうことっす。

そういう意味で逆側ってこと。

縛られないと自由なんて感じないのです。

つまりですよ。

我々自由をあまり感じてない側の方が自由というものの価値を知っているのです。

個人差はあれど間違いなく自由への想いはある。

自由を生んでいるのは我々だ!

誇れ!

縛られている今!

称えろ!

それでも頑張る毎日を!

自由を支えているのは逆側にいる我々だ。

自由とはなんだと考えた時に社会があってこそだと気が付くのです。

人がいて、社会があって、街があって国がある。

そういうのを支えているのは間違いなく我々です。

そして人がいて社会があって街があって国があるからこそ自由があるのです。

ただの旅行好きがいたとしてもですよ。

旅行先で泊まるところには働いている人がいるのです。

支えている人がいるのです。

全てを一人で行うことは出来ない。

畑を耕しながら動物を育てながら子育てをしながら旅に出ることは出来ないのです。

自由ってなんぞや。

我々が支えているのだ!

誇れ!

一つひとつが重なって大きな自由を作っているのだ!

称え合おう!

我々はみんなで自由を作っている!

自由とは考え方であり一人ひとり感じ方も違う。

人によって自由の考え方は違う。

仕事をしないで生きていくことを自由とする人。

好きな事を好きな時に出来ることを自由とする人。

お金に困らない生活を自由とする人。

家を持たず、旅を続ける生活を自由とする人。

人によって考え方も違えば感じ方も違うのです。

我々が頑張れば頑張る程その自由の幅は広くなる。

新しい仕事や新しい価値観が生まれる度にまた一つ自由が増える。

大昔。

人々が刀を持たなくなることが自由と感じた人がいたように、我々は常に新しい自由を作っている。

刀が必要なくなれば他の何かがまた自由を奪う。

そしてまた新しい自由が出来上がる。

最強の自由は時代と共に形を変える。

だから自由は考え方次第で今すぐにでも手に入るものなのかもしれない。

お金は必要だと…。

思うがね。

我々の毎日は繰り返しではなく螺旋を描いている。

自由の反対側にいると思うと辛くなる時があるのです。

どうしても逃げ出したくなるのです。

それは毎日が同じ繰り返しだと感じるから。

何も変わらない毎日を過ごしている虚しさは結構心をむしばんでくる。

やっつけてはやってきて、忘れれば思い出す。

だけど実は違う。

それは時代と共に世の中が変わるのと同じ。

毎日変わらない生活の中でも時代は少しずつ変わっていくのです。

螺旋なのだ。

クルりんクルりん回りながら上へ向かう。

螺旋階段と同じ仕組みになっている。

だから毎日同じことの繰り返しだと思って心をむしばまれているのなら称えたい。

螺旋階段を上っている現状を褒めたいのだ。

これが努力。

サッカーが下手な人が明日いきなりリフティングが1000回出来るわけではない。

英語が明日急に話せるようになるわけがない。

毎日の一生懸命が結果的にそうさせるのだ。

それが本当に変わらない毎日の繰り返しのはずがない。

英語やサッカーというわかりやすいものではないだけの話でやっていることは一緒。

螺旋階段の先にあるのはもしかしたら自由なのかもしれない。

それは上がっていかないとさすがにわからない。

でもたぶん自由。

螺旋階段を登り切ればたぶん自由がそこにはあると思う。

その時の気持ちって…。

想像出来ない。

でもたぶんある。

毎日の一生懸命の繰り返しの先には必ず自由がある。

そうじゃないとそもそも自由が無いことになる。

それは反則。

すでに大きな自由を手にしている人っていうのは螺旋階段を登り切った証拠なのかもしれない。

そうじゃないと嫌だ。

すごく嫌だ。

だから登り切ろう!

共に登り切りましょう!

どうしてもその先が自由であることを自分で確認したいのです。

本当の自由を知っているのは我々である。

螺旋階段を上らずにただサボる。

螺旋階段を上らずに世界旅行へ行く。

螺旋階段を上る為にサボるのならわかる。

螺旋階段を上る為に世界旅行へ行く。

自由っていうのは間違いなく不自由を知っている人にしか掴めないものだと思うのです。

不自由だと感じる部分を解放することが自由なのです。

与えられた時間や与えられたお金。

それを自由に使ってもいいってなったら、ありがたく頂きますけど、なんか違う。

それは自由ではない。

自由ってそういうことじゃないと思うのです。

海外旅行に行こうが仕事をサボろうが一生懸命自分の人生に立ち向かった結果得るものだと思うのです。

むしろ高橋歩と同じ生き方は出来ないとしても、「自由人」になる螺旋階段は間違いなく登りきる必要がある。

それが高橋歩流だっただけの話で人間としては誰もがクリアしたいと願うことなのではなかと思うのです。

本当の自由は不自由を打破した先にあるのは間違いない。

それを打破する為の毎日なのであればただの繰り返しではない。

螺旋!

我々は各々が自由を唱え、それを叶えようとしている。

やっぱり称えましょう!

やっぱり励まし合いましょうよ!

自由はそれぞれが知っている!

飽くなき探求心が必要。

旅って出かけるだけのことを言うのだろうか。

違うね!

違う!

旅っていうのは遠くへ出かけることだけではない。

飽くなき探求心を持って生きることが旅。

自分にとっての自由を手に入れる為に過ごす毎日が旅。

海外に行こうが、同じ国で同じ仕事を毎日繰り返そうが自由を諦めたわけではない。

海外に行くことで自由に辿り着く人もいれば毎日同じ仕事をこなすことで自由に辿り着く人がいてもいいじゃないか。

旅=自由人。

みたいなイメージがあるとどうしても自由人は旅をしなくてはいけないような気がしてくる。

でも違うと思うのです。

旅をしなくても自由人になることは出来る。

それは自分の人生の自由に対して飽くなき探求心を持っているかどうか。

自由人=旅。

もしその「旅」が外国とか旅行なのであれば、

 

「自由になったから旅をしてみたよー!」

 

くらいの気持ちでいいと思う。

旅っていうのは自分の人生で自由を掴みにいくための探求心そのものを言うのだ!

 

そうであってほしい。

それを証明出来るのは我々だけなのです。

だからさ。

たまには励まし合いましょうよ。