いつも偉そうな椅子に腰をかけている奴がいる。
そいつの前に出るとみんなペコペコする。
だから自分もペコペコする。
自然にそいつが強くて偉いのだと刷り込まれていく。
あっちにいったりこっちにいったり。
私たちがどんなにドタバタ劇を繰り広げようとも、個室の扉は開かない。
それでも、誰も、何も言わない。
「あいつは何やってんだ?」
って疑問にも思わない。
気が付けば「そういうもの」になっている。
いつスタートを切っても、「そういうもの」になるように出来ている。
不思議とそこに着地するようになっている。
ボスの在り方。
道しるべ。
そいつがボスであることは誰がどう見ても明らか。
ボス=一番強い。
っていう考え方はなぜだか子供の頃からの経験で学んでいる。
その「勘」みたいなのは大体その通り。
ただ、街中で、スクランブル交差点で、生まれて初めてそいつとすれ違ってもなにも思わないだろう。
他人にとって、そいつはボスじゃない。
ボスっていうのはいつも組織の中にいる。
人類全体にボスなんかいない。
色んな組織が集まって人類になっているから。
組織の中にはボスがいる。
どんなに偉そうな椅子に座っていようとも、組織であるにはボスを配置しなくてはいけないのだと思っている。
例えば、子供の頃に経験したゲームの中のラスボスの存在。
そいつがいなければ戦う意志すら呼び起こされなかった。
ボスが強ければ強い程、
燃えた。
組織の中にボスがいるのは当たり前だって捉えていたけど、理由はある。
あれは目に見える「目標」のようなもので、
それを倒そうと自分が強くなるのか。
それとも一緒になって戦うのか。
目標になっている。
ボスは結局、「私の為」に存在しているのではなかろうか。
ある意味道しるべになっているのではなかろうか。
「私のところへ辿り着けるかな?」
っていうあれ。
存在そのものに一番の意味があって、
ボスに備わっている能力はオマケみたいなもの。
いざとなった時。
「やっぱりボスは強かった。」
そう思わせてくれるなら、さらに組織の象徴となろう。
そして道しるべになるんだと思う。
組織内のボスは強ければ強い程、誰かの目標になり、道しるべになる。
ボスはズバ抜けている。
一度でもボスの存在とその強さを知れば、姿を見た瞬間震えあがるかもしれない。
それは自分が組織の中にいる事を認めたと同時に、「ボス」の存在を認めている証拠。
今自分が生きている社会には圧倒的な力を持つボスが存在している。
もし、その組織を抜けたとしても「ボス」としてのイメージは残る。
近い将来、そのボスと対等の力を得たとしても、「○○のボス」という存在感を持ち続けるのだと思う。
でもそれじゃあ悔しい想いをしたままだ。
ボスの力に怯えているだけじゃだめだ。
自分がボス級の力を身に付けたいのなら、身近にいるボスの行動や言動をよく観察しなければいけない。
持ち合わせている能力を把握しなくてはいけない。
人は常に完璧にはなれない。
だから優れている部分もあれば劣っている部分もある。
それでも、ボスという存在になれた理由。
つまり、とんでもなく優れている部分がある。
常人よりもズバ抜けた何かを持っている。
人っていうのは他人の「ダメなところ」に目がいく。
そして「自分はそうしないようにしよう」とバランスを取ろうとする。
または自分はマシな方だと安心材料にする。
ボスがボスになれたのはズバ抜けた何かを持っているから。
ダメなところを見つけて安心している場合じゃない。
ボスは常に道しるべ。
ボスを倒したいのであれば、ズバ抜けた部分の逆側が弱点である。
ボスを目指しているならズバ抜けている部分を盗み、吸収しなくちゃいけない。
いつだって教えてくれている。
自分の「そこそこ良い部分」を見て安心している場合ではない。
ボスを倒す為に自分を該当する弱点に特化させるか、ボスが持つスキルを自分のものにしなきゃ。
自分もズバ抜けた何かを持たなければボスがいる部屋の扉は開かない。
ボスの目の前に立つことすら叶わない。
ボスを見て、ボスを感じて、もっと尖ってスバ抜けた何かを会得しなくてはいけない。
自分の「そこそこ良いところ」に酔いしれて何が楽しいのだ。
そんなことしてたらボスに追いつくにも倒すにも時間がかかってしょうがない。
人生は短い。
もっとズバ抜けて尖っていこう。
ボスを支えるもの。
たぶんほとんど人がボスの本気を見たことが無い。
その組織に新しく加わった人だけでなく、組織のほとんどの人がボスの本気を知らない。
それがボスという存在。
その力を見れたとしても一瞬。
そこでどんな能力があるのか見極めないといけない。
恐らくボスの本気を深く知っているのはボスの側近くらい。
それ以外の人はその存在感だけで圧倒されることがほとんど。
ボスがいる豪華な部屋の扉。
すごく強い側近達。
「こんなに豪華な扉の向こうにいる奴は強いに決まってる。」
「こんなに強い側近がいるのならボスはさらに上ってことだ。」
ボスにはボスを決定づける演出がある。
豪華な部屋や扉や佇まい。
纏っている服に凄みのある立ち方や姿勢。
言葉や行動。
圧倒的に強い側近。
四天王なんていう位置づけがあるのなら更なる演出。
ボスの下にいる選りすぐりの4人。
それだけでボスまでの距離をさらに遠くする。
遠く及ばない雲の上のような存在。
自然にそうなっていくのか、それとも自ら演出しているのか。
どちらにしても、これから様々な事に挑戦していく、主人公の我々には持ってこいの設定である。
大きく、強い力で支えられているボス。
それを打ち倒すも、仲間にするも良し。
それ以上の可能性を持っているのが我々。
力を付けながら、信頼を積み上げて、新しい組織を作る日が来るかもしれない。
今見上げているボスはどうやって支えられている?
どんな演出をされている?
組織の中にいるから「ボス」なのである。
つまり「ボス」にしているのは組織の中にいる我々である。
ボスを目指しながらも、倒そうと修行しながらも、支えているのはいつも私たち。
どんなに嫌がっても「ボス」っていうのはいつも傍らにいる。
ラスボスがいなきゃ勇者は生まれない。
人は成長する。
成長の過程で経験した全てが経験値となる。
レベルを上げていく。
生まれた時は皆「レベル1」。
生まれ持った才能ですら、経験値で開花させなくてはいけない。
だけどほとんど人が自分にどんな才能があるかなんてわからない。
少しづつ、レベルを上げながら大人になって、組織に入る者もいれば若くして才能を知り、多くの経験値を経て尖った能力を発揮する者もいる。
才能とはなんなのかを手探りで探しながら波を超えて生きていく。
そしてやっとの思いで見つけた自分の才能があるとする。
だけど、結局自分よりもさらに上の才能を開花させた存在に出会う。
ボスだ。
諦めずにボスに追いつく、追い越す、倒す。
更に上のボスに出会う。
それでも食らいつく。
経験値を得て、能力を上げ、スキルを尖らせる。
頑張って頑張って、努力して、
そしたら、ラスボスの噂が自分の耳に届く時が来るかもしれない。
上には上がいる。
その頂点に立つ者はいつも一人。
もし、そいつに出会う事が出来るなら。
もしそいつの居場所がわかるなら。
挑戦するべきだと思う。
ラスボスに会う機会を得られたのは、これまで多くの冒険をして、困難を乗り越えてきたから。
そうじゃないと自分の耳には「近場の余裕で倒せちゃうボス」の情報しか入ってこない。
そのボスを超え、さらに遠くへ足を延ばし、力を付けたからラスボスの情報を得られたのだ。
ラスボスの存在を確認したのなら挑戦すべき。
それは自分が勇者になれる数少ない機会であって、多くの人が憧れる存在で、待ち望んでいる人だから。
勇者になるべくして生まれてきたと言われても、「ラスボス」を倒せなきゃ「勇者」じゃない。
ラスボスを倒せない勇者なんて偽物だ。
「ラスボス」を倒した奴こそが真の勇者。
ラスボスがいてくれなきゃ勇者なんて生まれない。
ラスボスに感謝を。
世の中には多くのボスがいる。
そのボスもまた、「ラスボス」を倒すために日々努力をしているかもしれない。
真のラスボスになる為に。
そう考えると、中盤のボスですら、「ラスボス」を倒す可能性を秘めている。
そして今君臨しているラスボスは一つ前のラスボスを倒してその座に腰を掛けている。
わかるだろうか。
ラスボスは、元勇者である。
元勇者がラスボスになる。
もしラスボスの目の前に立つ機会が来たら感謝しよう。
「あなたのおかげでここまで強くなれました。ありがとう。そこ、どいてくれますか?」
引きずり降ろしてやれ。
次の勇者は誰だ。
どうか感想をください。