運を味方につける方法があるのなら知りたいと思ってしまう。
運っていうのは占いみたいなもので、不確かで、信用は出来ない。
でも生きていて、「運がよかった」と思う瞬間は結構ある。
逆の意味で「運が悪かった」と思うことも結構ある。
不確かなのにも関わらず、自分が意図しない「良い」「悪い」は運に置き換える。
「運」は自分が考えている未来が予期しない事態に見舞われた時に感じる。
「運」の良し悪しにしてしまうのが最も都合が良い理由だったりする。
取りあえず運のせいにしておけば、期待以下の結果も、期待以上の結果もどこか納得出来たりする。
結局「運命」はどっちに転んだとしても都合の良い言葉で、
自分の心情に大きな変化を加えなくて済む。
運に身を任せるのは大きな変化を拒むのと同じ。
私が運命という言葉を使うのは、自分の力で道を切り開くのを止めた時。
理由が「運」なら仕方がない。
と、どこかで諦めた時。
その結果が良かろうが悪かろうが、自分の意図した未来ではないと思った時。
「運命に逆らう」っていうのはきっとどんな結果でも「運」のせいにしないってことだと思っている。
どっちが「かっこいい」のか考えた時。
私は迷わず、「運命に逆らう」方だと答える。
でも宝くじに当たったら、
きっと「運が良かった」と思う。
私はどこまで運命に逆らう事が出来るだろう。
運を味方につける。
ギャップを埋める。
運命を理由として使わない選択をすると、想像していない結果も納得して、飲み込まないといけない。
その結果が良かろうが悪かろうが、自分で招いたことだと考えなければならない。
その時のギャップは結果次第で大きくなる。
「運が悪かったとしか思えないような結果も自分の責任にする。」
それは辛い。
想像しえなかった結果を納得しなくてはいけない。
納得する理由が見つからない状態で飲み込めるはずがない。
だから考える。
どこかキーポイントになるようなことはなかっただろうか。
あの時、こうしてしまったから。
あの時、こう言ってしまったから。
どこかに想像しなかった事態を招いた理由があるんじゃないかと探す。
それらしき理由を見つける事が出来るなら改善する。
思いもよらぬ結果を目の当たりにした時に、
「それがどうして起きたのか」を考えるようになる。
その考え方は絶対に無駄ではない。
自分の未来を「予想外」を含めて想像出来るようになると思っている。
これまで想像しえなかったことも想像出来るようになる。
想像出来るようになって、もし、それが実際に起こったとしても、予想外の衝撃は小さくなる。
想像と想像以上や想像以下のギャップが無くなっていく。
私はこのギャップこそが起こったことを「運」のせいにする原因だと思っている。
幅広く考えられるようになればそのギャップは埋まり、想定内の出来事になる。
想定内で起こったことは「運命」ではない。
自分で招いたもの。
実力。
今持っている自分の本当の力を測る為にも、「運」のせいにしない。
多くを想定して、失敗したり成功したりする。
その原因を探って、改善する。
原因が見つかればその先も想像出来るようになる。
私はもっと運命に逆らいたい。
でもまだまだ、全て自分の実力が招いた結果だとは思えない。
特にマイナスなことが起きると、「運が悪かった」と思いたくなる。
勝利の女神。
冷静に考えて、勝利の女神を私は見たことが無い。
スポーツの世界で実況している人が良く口に出したりする。
力が拮抗している選手やチームが戦っている時。
戦況がなかなか動かない時。
「勝利の女神はどちらに微笑むのか。」
と言う。
拮抗して動かない試合展開をも楽しませるのが「勝利の女神の存在」であって、実際にいるわけでも感じているわけでもない。
まるで勝った方に運があるかのよう。
その勝負に勝とうが負けようが、選手達が考えなくてはいけないのは、
勝利の原因や敗北の原因。
何が有利だったのか、何が不利だったのか。
どこで勝ったのか、どこが足りなかったのか。
私は「運命」に全てを委ねて勝ち続けるスポーツ選手を見たことがない。
「あれは運です。」と言い続けて結果を出すスポーツ選手を見たことがない。
最後の最後で踏ん張りが効く「普段の練習が作り上げた実力」の成果としか思えない。
だから勝っても負けても「反省すべき点」があって、それを今後の課題として練習の中に取り込んでいく。
もし運だと感じても「想像の範囲」として底力を発揮する実力を上げていかなくてはいけない。
勝利の女神なんていない。
自分の実力で掴んだ勝利だと胸を張って言いたい。
実力は「運」では証明出来ない。
一発屋は「運」と言われるが、売れ続けるのは「実力」があるからと言われる。
その通りだと思う。
それが「どんな実力」なのかはわからないけど、日々の積み重ねでしか得られない。
一発屋の「運命」に逆らわなければ、売れ続ける「実力」を手にする事は出来ないのだと私は思っている。
「運命にメカニズムはない」が、「実力には裏付け出来る程の努力」が詰まっていると信じたい。
そうじゃないと誰も努力なんてしない。
圧倒的な結果を出し続けるには絶対に「運」だけでは説明出来ない理由があってほしい。
勝利の女神の大好物が「毎日積み重ねていく努力」だと願いたい。
それなら頑張れそうな気がする。
実力は全てを含む。
例えば自分がスポーツ選手だと仮定した時に、
その実力は該当種目のスキルだけではないと私は思っている。
自分の周囲にいる人。
毎日のように支えてくれている人。
その種目をメインスポーツとして輝かせている人。
自分以外の人や環境、全てが揃って実力になる。
そういう人達に感謝出来ているか。
そういう環境に感謝出来ているか。
自分のわがままだけで実力は測れない。
応援してくれる人がいて、それが力になったりする。
気持ちの面はすごく大切。
「想い」の力は目に見えないが、必ずあると信じている。
そして実力はその「想いの力も」も含まれると私は考えている。
多くの「想い」を集められるプレーをするスポーツ選手がいる。
それは「人気」とも呼ばれる。
人気があればカリスマ性があるとも言われる。
もし芸能人であれば、その人の価値は「人気が全て」と言っても過言ではない。
人気が無いところに視聴は生まれない。
視聴が生まれなければ関心を生まない。
自分が多くの人から応援されるような人にならなくてはいけない。
「人気」は自分の価値を表すバロメーターでもあり、実力の一つ。
人気があるから様々な人や場所に必要とされる。
人気があるからスポーツをしていても多くの人がスタジアムに足を運ぶ。
誰かに必要とされる存在。
これは間違いなく「実力だ」と私は思っている。
運だけで「人気」を獲得出来るだろうか。
偽りだけで「人気」を獲得出来るだろうか。
一発屋には一発屋になれるだけの資格があるのかもしれない。
一発屋にすらなれないのは「運がない」わけではない。
そもそもそこまで実力が達していないだけなのかもしれない。
多くの勝利や多くの結果をもたらす人は、それなりの人気があって、勝利を掴んでくれる安心感もある。
もし、今、自分に人気がなかったり、思い描いたような結果が得られないのだとしたら、それは「スキルが足りない」だけが原因だろうか。
技術だけでは説明がつかない力は必ず働いている。
でもそれは「運」ではない。
人気であったり人柄であったり周囲の協力であったり、
誰かの心を動かす力なんじゃないだろうか。
その力をどうやって養うのか。
それこそ解き明かさなくてはいけない最大の謎。
「運命」だと決めつけて解明するのを諦めてはいけない。
人には身体能力や技術だけではない力がある。
そしてそれは「運」ではなく、実力に含まれるのだと私は思っている。
毎日一生懸命定めた目標に向かっていく姿であったり、誰かを心から大切にする想いであったり、
一日一日を無駄にしない姿勢であったり、誰かを感動させるなにか。
それは技術だけでは得られない。
時間をかけて、少しずつ積み重ねて、大きくなっていくもの。
誰かに対して思う、
「あいつは運がいいなぁ。」
は本当に「運」だけだろうか。
本当に技術だけだろうか。
運命を切り開くのは「運」じゃない。
絶対に「実力」であってほしいと私は思っている。
チャンスは平等だと今でも信じたい。
それを掴み取るのは「実力」であって「運」なんかじゃない。
実力には技術だけじゃなくて、様々な目に見えない力も加わっている。
「だから面白い世の中だ!」
って思いたい。
「運も実力の内。」
その通り。
「実力」は「運」を含んだ最強の存在。
運命なんて実力で切り開けるはず。
運に頼るのはもうやめにしよう。
実力を伸ばせば運はついてくる。
運も実力の内なのだから。
どうか感想をください。