残念な事に世の中のお金の量は大体変わらないんだ。
だから結局は奪い合うように出来ている。
でもさ。
出来るなら必要な分だけで満足したいものですな。
必要以上のお金を求めるとどうしても奪い合うようになってしまう。
悲しいことです。
頭が良い人が多くのお金を手にするのでしょうか。
ズルい人が多くのお金を手にするのでしょうか。
どうしてそうも欲しがるかね。
どうしてこうも高いものから安いものまであるかね。
価値そのものだな。
欲しがらなきゃ価値なんて上がらないのだ。
でも欲しいものは欲しい。
その為にお金を稼ぐ。
だってほしいんだもん!
欲しくて欲しくて困っちゃう。
次から次へと欲しいものが増えてしまって困っちゃうの。
だめだ。
世の中はお金を奪い合うように出来ている。
それならもうわかった!
わかったよ!
その奪い合いに。
参加してやるよ!
世の中のお金は奪い合うようになっている。
あなたと私はもう敵同士だ。
お金の奪い合いに参加するっていうのはそういうことだ。
金に対しては冷徹になろうではないか。
だけどね。
お金を奪い合いに参加するっていうのはリスクを背負うことなんだ。
奪われる覚悟は出来てる。
それでも俺は参加する!
キレイごとだけでは生きていけない。
お金は必要ないとか。
お金が全てではないとか。
お金に囚われないとか。
そんなうるせー事を言っている場合ではない。
そんなキレイごとばかりを並べて赤いマントを広げている場合ではない。
優しさだけで生きていけるならお金なんて存在しないわ。
お金から逃げるのは危ない。
お金から逃げてはいけない。
生きがいは持つ。
夢も持つ。
でもお金から逃げてはいけない。
夢を叶える為にも生きがいを見つける為にもお金が必要なのだ。
土台。
全ての土台がお金だと考えてもいい。
そのくらい重要な事だ。
キレイごとを並べる前に土台を整えた方がいい。
筋トレみたいなもの。
体力みたいなもの。
基礎練習みたいなもの。
全てはその上に成り立つ。
土台なのだよ。
圧倒的な土台が必要になる。
あなたの夢を叶えるための土台は絶対に必要だ。
体力がないのにマラソン選手になれるか!
なれるわけがねー!
走らなきゃ早くならない。
お金が必要なのにお金を稼がないって言ってるのと同じだ。
と思う。
キレイごとだけでは守れない。
丸裸で多くの矢を受けてみろ。
死ぬ。
痛い。
死ぬよ。
「気合いで立ってやる!」とか「俺はそれでも倒れない!」とか。
キレイごとを並べて本当に守れますか。
本当に丸裸で多くの矢を防げますか。
お金はディフェンスだ。
多くの矢から自分を守る為に盾が必要だろう。
鎧が必要だろう。
家族を守る為に強固な家が必要だろう。
高い壁が必要になるだろう。
お金は奪い合いだ。
多くの矢がいつ自分に降り注いでくるのかわからないんだ。
というかそういう奴はいるのだ。
実際に矢をここぞとばかりに撃ってくる奴がいるのだ。
丸裸では守れない。
キレイごとでは守れないのだ。
別に武器を持てと言っているわけではない。
むしろいらん。
武器などいらない。
でも守りたいじゃん。
大切なものって守りたくないですか?
私は守りたい。
守りたいから必要なものがたくさんある。
その必要なものを手に入れる為にはお金が必要なのです。
キレイごとでは守れない。
だからお金が必要なのだ。
守る為にお金の奪い合いに参加する!
お金についてもっと考えるべきだ。
キレイごとでは生きられないならお金についてもっと考えるべきだ。
キレイごとでは守れないならお金についてもっと考えるべきだ。
考えて考えて、考えて考えて。
常に考えていかないといけない。
答えなんていらない。
お金は必要な事実は変わらないのだ。
世の中にお金が必要とされなければいいと思うだけ。
お金以上の価値があると吠えるだけ。
お金は間違いなく必要だ。
必要な事実を気持ちでねじ伏せてる場合か。
違う。
そんな精神論はいらない。
精神論に浸るくらいならお金についてもっともっと考える時間を持つべきだ。
「金金金金!」とうるさいくらいに考えるべきなのだ。
お国柄によっては「お金は汚いもの」だと認識されているかもしれない。
でも考えるのは自由だ。
精神論やビジネス本くらい自由な発想。
だから考える。
たくさん考える。
たくさん考えたらきっと思う。
お金は間違いなく奪い合うように出来ているのだと。
誰かに公言する必要などないけど、
貯金をしようが無駄遣いをしようがお金について考える時間は絶対に必要なのだ。
お金こそ最強のトラブルメイカーだ。
お金っていうやつはいつもトラブルの原因になる。
すごくそう思う瞬間がある。
「いちゃもん」
だってタダでもらったものに「いちゃもん」を付けるか?
タダで渡したものに「いちゃもん」を付けられて言い返すか?
でも「お金を出して買ったもの」ってなると180度変わる。
いちゃもんを付ける方も付けられる方もそれなりの対応を覚悟する。
お金がどれだけ大切か本当は良くわかっているのだ。
本当はわかっているのになぜかキレイごとで隠そうとするからトラブルを生むのだ。
やつはトラブルメイカーだ。
お金っていうやつは本当にトラブルメイカーなのだ。
こんなにうざったいトラブルメイカーなど他にはない。
最強にうざい。
でもその存在は誰もが認めている。
そのそばに私たちはいつもいる。
離れられない。
絶対に密着している。
だから奪い合いに参加する方を選んだのだ。
神に頼んでも奪い、奪われる。
お金が欲しくて宝くじを買う。
「当たってくれますように。」
誰にお願いするのだ。
平等な神にでも祈るのか。
その宝くじは「誰かが宝くじを買ったお金」だ。
それを間接的に奪っているのと同じ。
奪っているのと同じなのに何をお願いするのだ。
祈ってもお金は奪われる。
祈ってもお金は奪うことになる。
どうせ祈るくらいなら宝くじが当たった後に、
「申し訳ないけどこのお金は有効に使わせてもらいます。ありがとう。」
と報告したいものだ。
お金が欲しいとお願いするものではない。
なぜなら奪い合いだからだ。
奪い合うものに「私が考えてきた神様」が参加するわけがないのだ。
生まれた時点で参加するように出来てる。
大変喜ばしいことに生命の誕生にすらお金が必要となる。
なんともまぁ。
生命の誕生にすらお金がかかるのだ。
お産をするのにもお金が必要になるということ。
我々は生まれた時点ですでにお金の奪い合いに参加していることになる。
もちろん選択は自由。
自由なのはわかる。
自由なのはわかるけど必要最低限のお金が無ければ自由すらないような気がするのだ。
この考え方って変ですかね。
「キレイごとでお金以外の部分の価値を見出す選択」と「必要最低限のお金は絶対に必要だと思ってお金を稼ぐ選択」
どっちも選ぶって無理じゃないですか。
「必要最低限のお金を稼ぎながらお金以外の部分の価値を見出す」って難しいじゃないですか。
今の自分には出来ないっす。
だって必要最低限のお金が必要な時点でお金以外の部分の価値を「本当の意味で」見出せない。
自分にはそれが出来ないのです。
好きな事をやるにも、好きな仕事が出来ていたとしても。
夢を追っていたとしても、お金のしがらみがどんなに嫌いだとしても。
生まれた時点でお金が必要とされている。
税金として国に徴収され始める。
年貢じゃない。
お金を税という言い方に変えて。
それが現実なのだ。
税がかからない国もあるのかもしれない。
でも少ない。
お金がかからない場所を求めて旅をするのもいいかもしれない。
でもその旅にもお金が必要だ。
大人の喧嘩は金だ。
大人の喧嘩は子供の時のように脚の速さや学力や言葉で戦うわけじゃない、ましてや拳の大きさでも筋力の差でもない。
現実は金だ。
金が力なのだ。
金がある方が強いと認識される。
金があるところに人が集まる。
人が集まればさらに金も集まる。
それが現実なのだ。
それから避けて新天地を探す事を止めようなどとは思わない。
でも俺は金を奪い合う「今」に参加することを決めたぞ!
どうか感想をください。