きっかけが嘘でも本当でも自分が熱くなった衝動は真実で未熟

小言

全く嘘をつかない人になりたい。

私は嘘をつくことがある。

その内容によっては物事がめんどくさい方向へ行く。

でも自分が嘘をついている時はそんなにめんどくさいことになるとは思っていなくて、

実際にめんどくさくなると「あの時の嘘か!」と反省する。

 

反省する度に「もう嘘はつかない!」と誓ってみる。

 

後日また、嘘をついたりする。

それをずっと繰り返している。

そもそも嘘をつく性格なのか、それとも嘘をついて自分を守っているのかはわからない。

 

嘘にはいくつか種類があると言われたことがある。

 

どの嘘を選んでも、誰かを傷つけてしまうかもしれない。

中には意味が分からない正義感を持って嘘をつく人もいる。

 

「これは優しい嘘だ。」

「思いやりがあるからこその嘘だ。」

 

相手の為を想って嘘をつくらしい。

私にはそんな高等技術を使うことは出来ない。

だから嘘をつくときはいつも誰かの事を考えるというよりは、

 

自分の為に嘘をつく。

 

その場がめんどくさくならないように嘘をつく。

嘘をついてなんとかその場を凌ぐ。

 

例えば目標。

 

仕事で誰かを納得させる為に「目標を高く設定」して伝える。

取引先には「それだけの効果が出るのか!」と驚きながらも関心してもらえる。

あくまで目標とは伝えてあるものの、相手の頭の中では「必達」と判断しているのだと思う。

だから喜び、興奮する。

 

その目標を達成出来なかった時。

 

まるで全てが嘘のようになる。

 

ただ、嘘をついたつもりはない。

結果的に嘘になってしまったパターンもある。

 

誰が、どこで、どんな嘘をついているのかどうかはわからない。

到底辿り着けない目標を掲げているのにも関わらず、信用させるだけの説得力があったりする。

 

たぶん、嘘をつく人はいなくならない。

 

自分を含めて、嘘はあちこちから出て来る。

どれが嘘でどれが本当かもわからない。

 

どうせこれからも嘘と本当の間で生きていくことになるんだと思っている。

 

スポンサーリンク

いつも嘘と本当の間にいる。

結局自分で判断するしかない。

世の中には「嘘みたいな本当」があって、「本当みたいな嘘」がある。

さらに人それぞれに性格があって。

なんでも信じてしまう人もいれば逆になんでも疑う人もいる。

 

きっと「これをすれば嘘をつかなくて済む」とか「これをすれば騙されない」とか、

決めてしまうことで新しい嘘のつき方が出来て、誰かを騙す手口も増える。

 

「あいつは嘘をつかない」とか「あの人は嘘しかつかない」とか、

決めてしまうことで自分が翻弄されているような気がする。

 

何パターンもの可能性が日々増えていく中で、

そもそも「嘘をつかない!」とか「騙されない!」って決めるのは自分。

 

自分がその時、その場でどう判断していくのかが問題だと思っている。

 

誰かをコントロールしたり、世の中をコントロールしたりは出来ない。

 

きっと出来ない。

 

それなら判断するのはいつも自分でなくてはいけない。

 

「今、嘘ついちゃった。」

「今、本当の事言っちゃった。」

「今、この人は嘘をついているんじゃないだろうか。」

「今、この人は本当のことを言っている。」

 

どれもこれも、問題はその後にある。

 

嘘をついてしまったことで今後問題が起きると考えるなら、

誠意を持って謝罪、訂正する。

 

本当の事を言ってしまったことに問題があるなら、

本当を捻じ曲げる方法を考える。

 

結局、今後、自分にとって都合が良い方向がどっちなのかを探るしかない。

 

誰かが嘘をつこうが本当の事を言おうが判断するのは自分。

 

「あいつお前のことが好きなんだってよ?」

 

思春期の頃、それが嘘だとしても元気が出る時があった。

逆に本当の事を知ることで愕然とする時があった。

 

相手の事を想う嘘を正しいとは思わない。

 

だけど嘘も本当もどっちでもいい瞬間があって、

結局それを伝えられたところで判断するのは自分。

 

どうせこれからも「嘘だか本当だからわからない間」で生きていくのだから、

 

自分の判断力を養っていく方が良いと思っている。

 

嘘があるから面白い。

「この物語はフィクションです。」

この文字を見たことがある人は大勢いる。

 

作り話。

ファンタジー。

 

それでも「楽しい」と感じるものがある。

言い換えれば、

「この物語は嘘です。」

ってこと。

 

フィクションやファンタジーっていう言葉で、嘘を肯定してみる。

 

それを「楽しみ」と捉えている人もいる。

嘘でも喜びを作り出す人がいる。

 

フィクションだとわかっていても、人はそれを楽しむことが出来る。

 

公に放送されているからこそ成り立っているとは思うが、

誰かが嘘をついたとしても、誰かが本当の事を言ったとしても、

 

自分の人生はもっと楽しくすることが出来ると私は信じている。

 

自分の想像の範疇を超えていることが「嘘」ではない。

自分の想像の範疇内にいることが「本当」ではない。

 

どちらかに寄せてしまうと、

もしかしたら「フィクション」の楽しみ方も、「ノンフィクション」の楽しみ方もわからないかもしれない。

 

嘘があるから本当の喜びや楽しみを感じることもある。

本当があるから「嘘」が際立って楽しみを感じることもある。

 

嘘を肯定するわけじゃないけど、

嘘で誰かを喜ばせることは出来るのかもしれない。

 

私はファンタジー映画も好きだし、「ノンフィクション」のリアリティも好き。

 

どちらも面白いものは面白いと感じる。

 

揺るがない。

「私は絶対に嘘をつかない。」

と言われるとなんだか信用出来そうな気がする。

 

でもそれが本当なのかどうかの証明は出来ない。

 

それを言われた後に、もう一人が、

「私は嘘しかつかない。」

と言う。

ちょっと面白い展開になる。

 

「私は嘘しかつかない。」

は紛れもなく嘘であって、

その場を楽しむ為のユーモア。

 

ただ、「私は絶対に嘘をつかない。」と誰かが言われなければそのユーモアは生まれなかった。

 

どっちが「本当」か「嘘」かなんてどうでもいい。

その場を楽しむだけのユーモアが生まれたのは「真実」。

 

「嘘」か「本当」かを常に判断していると疲れる。

 

私は考え過ぎてしまうところがある。

だから話を聞いている時も、それが「嘘」か「本当」かをその場ですぐに判断しようとしていた。

 

でもそこから生まれるユーモアを知って、考えるのをやめた。

 

どっちかの判断を常にするんじゃなくて、

「どっちでもない」も選ぶ時もある。

 

そうすることで自分の気持ちも軽くなるし、その場をより楽しむことだって出来るようになった。

 

2択を3択に。

 

嘘をつく人もいるし、嘘をつかない人もいるし、どっちでもない人もいる。

 

その判断はまた数日後に変わるかもしれないし、誰かと話をすればその時にすぐさま変わるかもしれない。

 

私は「嘘は絶対に許さん!」と決めてしまうと少し疲れることがある。

かと言って本当の事しか言わないとユーモアが無くなるような気もする。

 

出来るなら両方あって、その場で判断しながらそれなりに楽しい時間を過ごしたい。

 

楽しんだもん勝ち。

絶対に嘘をつかないことで「楽しい」と感じる人もいる。

嘘を見抜く「楽しみ」を持っている人もいる。

「どっちでもいい」と思ってその場を楽しむ人もいる。

 

伝えられたことが本当だろうが嘘だろうが、結局その人が楽しいのなら何も言えなかったりする。

 

「それは間違ってるよ!」

と言ったところで何か変わるのだろうか。

別に冷めているわけでも諦めているわけでもない。

 

私にも譲れないものがある。

 

きっと誰もがそう。

譲れない部分があったりする。

 

それを真っ向からぶつけ合う瞬間は必ずある。

今後も必ずある。

 

その時が来れば本気になる。

 

いつそれが来るのかわからない。

 

誰かの「嘘」について本気で反論するのかもしれない。

誰かの「本当」について本気で反論するのかもしれない。

 

結局どちらでも「本気」でぶつかりたくなる瞬間はあって、

その時の衝動に従う。

 

だって譲れないのだから。

 

それが嘘であっても本当であっても譲れないものは譲りたくない。

 

その気持ちが伝えたいのであって、その手前にある「嘘」や「本当」は自分が本気で伝えたい真実を導き出す為の材料でしかない。

 

私は不器用な方だから、

多くの「嘘」と「本当」を見たり、聞いたりしながら自分なりの「真実」を見つけるタイプ。

 

「は?」と思えば嘘でも本当でも反論してしまう未熟者。

 

私にとっては嘘も本当も自分を作る過程で必要になるらしい。