他人の価値観と唯一向き合えるエンペラータイムの存在

生活

時間は全ての人に平等なくせに使い方によっては平等ではなくなる。

例えば家を建てるとする。

自分一人で全てを建てる。

長時間がかかる。

多くの人で一気に建てる。

すぐに完成する。

その後の時間を家を建てる事以外で使うことが出来るようになる。

世の中に時間しかないなら確かに平等かもしれないけど使い方が違うだけで価値が違ってくるような。

そんな気持ちになりました。

ところが、

 

「必ず一人で家を建てるんだ!」

 

っていう目標を持っているとすごく充実した時間になる。

どんなに時間がかかったとしても家を建てる為に使った時間は素晴らしい。

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素晴らしい時間を過ごしているかい?

時間は確かに平等。

だからこそ「自分にとって」無駄にはしたくないなと思うのです。

「自分にとって」が重要。

マジで重要。

行列に並ぶ時間は無駄でしょうか。

行列の先には待ちに待ったアトラクションが待っている。

そのアトラクションは自分にとっては並ぶだけの価値がある。

だから行列が出来る。

同じような価値を感じている人達で行列が出来る。

行列に耐えられるだけのアトラクション。

目的に辿り着くまでの時間も演出のように感じるかもしれない。

アトラクションを味わう素晴らしい時間の為の我慢。

それが行列の最後尾に並ぶと決心させたのだと思う。

一方アトラクションに興味が無い人にとってはどうだろうか。

その行列に並ぶ時間で別の事が出来ると考える。

圧倒的に無駄な時間だと感じる。

興味が無いものに対して行列を作っている。

超無駄。

ヤバい無駄。

耐えられるわけがない。

その行列の隙をついて別の事をする。

自分にとっては誰かが行列に並ぶ時間に何か別の事をする方がお得だと感じる。

お得な事をしている感覚が素晴らしい時間だと思う。

それは行列を作っている人達がいるからこそ生まれた時間。

行列に並ぶ時間は無駄なのでしょうか。

って考えると価値観が合わないって絶対すれ違う。

行列に並ぶその先にある価値観が似ていないと「無駄」か「すばらしい」かの両極端になる。

絶対にすれ違うでしょ。

絶対に喧嘩になるでしょ。

絶対に合わないでしょ。

一方が無駄だと思っていてもう一方は素晴らしいと思っている。

絶対に交わらないと思う。

優しく間を取ってもお互いにとって「素晴らしい時間」になるかどうかは皆無。

だってすでに「素晴らしい」を譲り合ってる。

どんなにお互いが優しくても心から素晴らしい時間になるかどうかはわからない。

むしろお互い「無駄」って思っちゃうかもしれない。

時間が平等だからこそすれ違う。

平等が価値観の相違を生んでる。

生みまくってる。

すれ違いまくってる。

むしろすれ違うのが普通。

そう考えるとすれ違ってナンボです。

すれ違っても価値観は変わる。

例えば恋人と価値観の違いで別れるとするじゃないですか。

付き合い始めって何かと本当の部分は隠したりするし、相手の価値観に寄り添う。

だって嫌われたくないし相手を優先するものだし。

順調に交際は進む。

交際が順調に進むと本来持っている価値観を主張するようになる。

もはや本性って呼ぶのかもしれない。

本性が顔を出し始めるわけです。

もちろん本性が顔を出すとある程度相手に寄り添うものの、自分の価値観も求めるようになる。

付き合い始めは行列に並ぶことも「一緒にいる素晴らしい時間」だと思えたかもしれない。

お互いの価値観も同じ。

 

「一緒にいる時間が素晴らしい。」

 

でもそれをずっと続けられるかって言われると、

 

「今後もずっと一緒にいる。」

 

ってなる。

そうなると「一緒にいる。」を達成したので違う価値観を主張する。

価値観が付け加えられる。

それか価値観が変わった。

ように感じる。

すれ違う。

ように感じる。

そもそも価値観は絶対に違うはずなのに。

お互いが好きになって一緒にいる時間が素晴らしいからその部分だけ一致しちゃう。

 

「あれ?同じ価値観じゃん!」

 

って思っちゃったんでしょう。

それ以外はそもそも違うはずなのに。

全て同じ価値観を持っている人に会った事が無い。

似たような価値観をいくつか持っている人には会ったことはあるけど全部一緒って。

ないないない。

それを認められないと別れる。

すれ違う。

 

「価値観の相違で。」

 

と言う。

普通なのに。

でもまたくっついたりする。

 

「やっぱり好きなので。」

 

と。

部分的に価値観が一致したから。

繰り返す。

価値観は違う。

双子でも全ての価値観は一致しない。

他人同志ならほとんど一致しなくても自然。

むしろ普通。

そもそも人間は一人で完結してる。

双子でも同じ。

何なら死ぬ時も一人。

どんなに一緒に連れ添った夫婦だとしても同じ。

時間は確かに平等。

でもそれに対する価値観は平等じゃない。

才能も考え方も捉え方も努力をする方向も違う。

なぜに時間だけ平等なのか。

腹立つわー。

どんなに努力をしても勉強しても考えても行動しても時間だけはなぜか平等。

諦めたくなるわー。

好きなことだけをしてたくなるね。

そしたら余計に価値観はすれ違うね。

時間が平等過ぎて価値観は絶対にすれ違うじゃないか。

くっそー。

素晴らしい時間を過ごしているならそれでいい。

もう価値観は違うものだから。

あとは自分が素晴らしい時間を過ごせているかどうか。

それだけでいい。

誰かの価値観をぶつけられてもどうも納得が出来ないへそ曲がりなもので。

自分はどうしても自分で何とかしたいのです。

だから誰かに価値観をぶつけてその通りにしてほしいとも思わない。

その代りに違うと感じている価値観をぶつけてこないでほしいのです。

違う価値観を感じてしまうとつい反発したくなってしまうから。

でも家族はちょっと違うのです。

他人はそれでも構わないのですが家族にだけはつい熱くなってしまうのです。

 

なぜなら家族は全員が幸せを感じていないと自分にとって素晴らしい時間が過ごせないから。

 

その為に価値観をぶつけ合う。

ぶつけ合ってぶつけ合ってぶつかり合う。

ぶつかってる間にだんだん角が取れてくる。

角が取れて来るとなんか寄り添うようになる。

尖ってた価値観が丸くなってくる。

丸くなってくると次はふわふわになる。

柔らかくなった価値観は形を変えられるようになる。

そうなると尖った価値観が向かって来ても刺さらない。

鍵穴みたいに収まることがあるのです。

 

「なるほどー。じゃあこうするのはどうだろう?」

 

とか、

 

「じゃあこういう感じにするのはどお?」

 

とか。

なんかうまく受け止められるようになるのです。

そうなると家族の全員が納得のいく展開になる。

その納得がいっている状態が続いている時間が幸せなのです。

その時間が素晴らしいと感じる。

だけど放っておくとまた価値観はカッチカチに硬くなる。

更に放置すると尖る。

刺さる。

ぶつかる。

また素晴らしい時間を過ごせるようにぶつかって丸くなってふわふわになって形を変えられるようになる。

家族の中だけでそれだけの価値観がぶつかり合う。

他人の価値観に付き合ってられるか。

自分の身近な人達だけでもとんでもない量の価値観がぶつかり合って形を変えているのに他人の価値観を理解するまでぶつかろうとは到底思えない。

自分がめちゃめちゃ優秀な経営者であるなら話は別かもしれない。

そんな才能ない。

常に全員が理解してもらえるような価値観なんて持ってない。

足並みを揃えるセンスもない。

欠片も微塵もない。

無理だ。

他人の価値観に付き合ってやる余裕なんてねーわ。

でもその余裕がなぜか生まれることがある。

センスもいらない。

経験もいらない。

でもなぜだか他人の価値観と向き合うことが出来る時がある。

それは自分が素晴らしい時間を過ごせている時。

その短い期間。

その時間を我々は長くは続かないエンペラータイムと呼んでいる。