世の中には自分が必要とする以上の「物」で溢れている。
私一人が生きていくのに必要なものはそれほどない。
それほど必要のないものがたくさんある。
それなのに「必要ない」とわかっていても欲しくなる。
世の中は必要のないものなのに、わかっているのに、売りたがる。
必要のないけど新たな価値を作って、それを私達消費者に対して大々的に宣伝してくる。
私はなんと、
その宣伝を見て、欲しくなる。
「必要ない」とはわかっていても欲しくなる。
だから消費する。
お金を使い今欲しい物を手に入れる。
もちろん本当に必要なものは衣食住であって、それ以外が嗜好品なのはわかっている。
それでも欲しいのだから困った。
手に入れた後に「いらなかったな。」と思うとそれは無駄遣いになって、
手に入れた後に「買ってよかった!」と思うとそれは自分への投資だと言う。
そもそも必要のないものに価値を見出そうとするのはその商品を作り出す人達ではない。
絶対に自分。
無駄遣いだとわかっていても買ってしまう嗜好品だらけの世の中で、
自分をどれだけコントロール出来るか。
自分への投資か。
無駄遣いか。
その辺りの線引きをしっかり持っておかないと飲み込まれる。
世の中は嗜好品で溢れている。
無駄遣いとの戦い。
無駄なものと必要なもの。
今あるもので十分事足りるのに、同じようなものを買うのは無駄遣いか。
私はそれを考えもせずに買ってしまうタイプ。
ゲームも買うし、お酒も飲むし、車も家も欲しいものは手に入れたい。
だからそれを買う為に仕事を頑張ったりお金を稼ぐのだと思っている。
結局嗜好品に魅力を感じて手を伸ばす。
貯金もしたい。
でもこのままで貯金は出来ないのだと思っている。
わかってはいるけど出来ない。
それほどに嗜好品が魅力的に見えてしまう。
それを手にした時に思う。
「本当に必要だったのか?」
「なくても良かったんじゃないか?」
もう買ってしまったのだから仕方がない。
後悔すればそれは間違いなく無駄遣いになる。
そこで考えた。
一番手にしたい嗜好品はなんだろう。
それを手にしたらどんな気持ちになるだろう。
結果的に「いらなかったか?」とならないだろうか。
本気で心から喜べるだろうか。
悩むことにした。
ずっと考えているとだんだん本当に欲しいのかわからなくなる。
むしろもっと必要なものがあるんじゃないかと思い始める。
結局自分に必要なものって何だろう。
今自分の周囲にあるものを見渡しても、実は無駄なものばかりなような気もしてくる。
本当に必要なものなんて少ない。
だけど新しく欲しいものはある。
なんにも買わないでいるといずれ欲しいものが増える。
「衝動買い」なんていう言葉もある。
買わずにはいられない衝動。
それも体験した。
どれもこれも無駄なものではない気がしてくる。
考え過ぎると、
理屈ではわかっていても、
無駄な物と必要な物の分別がつかなくなるらしい。
欲しいものについて考えればもっと欲しくなる。
無駄なものについて考えればさらに無駄だと思うようになる。
その逆の考え方をしている時もある。
そして、
その時の自分の意志に従う。
本当に無駄な物と本当に必要な物の分別は難しい。
必要を知りたきゃ無駄を学ぶ。
新しい物を手にした時に、その「物」に縛られる時間がある。
手にしたものが嗜好品だとその時間はさらに長くなったりする。
例えばずっとほしかった、念願だった車を手にしたとする。
間違いなく大切にする。
大切にするがあまり、洗車をまめにするようになる。
もしその車が手元になかったら、洗車の時間を自分がやるべきことに費やせたりする。
考える時間にも充てられる。
どちらが自分にとって良いのかはわからない。
でも少なからず、その時間を使って別の用事を済ませられるのは間違いない。
必要なのか無駄なのかは置いておいて、
実際に使う時間に大きな変化がある。
その時間が自分への投資だったり幸せに感じるのなら良いのだと思うが、
必要以上の時間を費やしてしまうと、自分がダメになっていくような感覚に襲われる。
その時にやっぱり「買わない方が良かったかな。」と後悔する。
後悔は先に出来ないものだからどうしようもない。
でもそういった経験が「断捨離」っていう考え方に向かっていくんじゃないかと思っている。
「無駄」を経験するからこそ本当の「必要」がわかる。
経験として「無駄遣い」は必要。
「必要」を知りたいなら「無駄」から学ぶ。
私は数々の無駄を経験してきた。
きっかけは嗜好品に首ったけになる時間だけど、
「無駄だ」と思った時は後悔ではなくて、「必要」を学んだと考えるようにする。
それでこれまでの無駄遣いがチャラになるわけではないが、
少し気持ちも楽になる。
必要も無駄も、
結局のところ経験していくしか学びようがないのかもしれない。
「物」だけじゃない。
知り合いに大豪邸に住む人がいる。
さすがにあれほどの大豪邸を見せつけられると興味が湧く。
興味が湧いて、色々と聞きたくなる。
家の中は「自分からすると」無駄なもので溢れている。
正確な価値がわからないもので溢れている。
壁にかかった絵。
物々しい置物。
使わない食器。
どれも私からしたら「無駄だろ!」と言い放つようなものばかり。
それを本人に聞けば「好きだし。必要かな。」と答える。
たぶん「必要」と「無駄」は一人一人の性格が違うように、
個人的な考え方に由来するのかもしれない。
中には大豪邸内部に飾られているもの見て、
「私もこれほしい!」
って思う人もいるのだと思う。
単純に私は思わない。
断捨離が流行しているのにも関わらず、ここにはいかにも高級そうな置物がある。
もしかしたら、めちゃくちゃお金持ちになったらわかるのかもしれない。
でも私はそうではない。
残念。
だから今後もわからないのかもしれない。
もしかしたら、お金持ちになる為に必要な置物なのかもしれない。
「無駄」も「必要」も性格的な要素が詰まっていて、
「これが正しい!」なんて言えたものじゃない。
今自分が本当に必要なもの以外に興味を持たない。
それが「物」以外だったとしたら。
「物」なんて全部いらないと思うのかもしれない。
愛情なのかなんなのか。
本当に必要なもの。
人は愚直に「欲しいもの」へ一直線に向かうことが出来る。
それが数々の嗜好品や誘惑によって脇道に誘われる。
フラフラ~っと寄り道したくなる。
寄り道している内にそれが当たり前になって、多くの無駄を生む。
でもそれは誘う側からしたら無駄ではなくて、必要なものだったりする。
そういう商売をしているのかもしれない。
「必要」と「無駄」には一定の需要があって、うまい具合にバランスを取りながらやっている。
誰かが大きく無駄をすると、誰かが大きく必要を手にする。
うまくバランスを取り合っているような気がする。
断捨離っていうのは、
きっと現代人の「無駄遣い」が多くなったからこそ生まれたんじゃないかと思っている。
大豪邸に住み、圧倒的な無駄遣いをしている人もいれば、家にはなにも置かず、シンプルな生活をしている人もいる。
どちらかが良いってわけでもなくて、
うまくバランスは取れているのかもしれない。
自分がどちらかに偏れば、逆の方向に偏る人がいる。
だからどんなに「無駄」だと思っても「必要」だと感じる人がいる。
それが「物」でなくても、
自分が追い求めている目標に一心不乱に励む人は他に見向きもしない。
目標へ向けて一直線。
その事で頭がいっぱいになっている。
それはそれで良い部分と悪い部分はあって、
他に興味関心が無い分、損したり、得したりのバランスを保っている。
私は、「どっちになりたい?」と聞かれれば、
「夢に向けて一直線!」
と答える。
その後、ソファーに座って、マンガを読む。
「後で、後で。」
と言いながら今日一日が終わりを迎える。
それでも幸せを感じてはいるが、
後悔もある。
「明日は、明日は。」
と言いながら次の週を迎える。
今私は、
「必要」なのは自分の目標を達成する強い意志で、
その意志が誘惑に負けている時間は「無駄」な気がしている。
どうか感想をください。