今日も私はせっせと働きます。
まるで働きアリだ。
会社の王の為なのはわかっているけど、そこは見事に伏せられて、全てを知らされず、目の前の仕事に没頭するよう命じられる。
この体は、すでにお金を追うように飼い慣らされている。
日々の生活が苦しくならないギリギリのラインを行ったり来たりしながら今日もせっせと働きます。
お金の為です。
全てはお金の為なんだ。
結婚しててもしてなくても、子供がいてもいなくても、一人暮らしでも実家暮らしでも、必要なのはいつもお金。
金、金、金。
今日も金を稼ぐ為にせっせと社会のルールに沿って生きていく。
面白くなんかねーよ。
でもしょうがないんだよ。
人は社会で息を吸ってるだけで金がかかる。
存在しているだけで金がいる。
今日もクソ面白くない仕事の為に、クソ混んでる電車に揺られ、バックも髪型もヒッチャカメッチャカに押し潰されて、大都会に降り立つ。
やり甲斐?
ないね。
全くない。
仕事をするのは金の為。
もうね。
飽き飽きしてんのよ。
だから変えたい。
変わりたい。
仕事にやり甲斐を感じられれば人生はきっと楽しい。
そう思ってる。
問題は、それがどこにあるか。
一緒に探しに行きませんか?
金は絶対に必要だ。
そう。
金は必要。
絶対に必要だ。
私は今、やり甲斐を推したいのだから「金なんていらねー!」と言いたかったけど、それは、言えない。
我々はいつもお金におんぶに抱っこで、もしお金を否定しちまったらどうなる?
山に篭って仙人になるしかない。
「社会なんざ関係ねーぜ!」って生活を送らなきゃならない。
仙人になる参考書でもあればまだいいけど、先生がいればまだマシかもしれないけど、生憎、私には仙人の知り合いもいない。
と言うより、社会の中で完全な自給自足を掲げても、畑を耕しながら牛や豚や羊を飼い慣らすのを自分一人でやるってのはほぼ無理で、その言葉は人と繋がりを持ちながら助け合う前提だと思ってる。
畑に沢山の野菜が実ればそれを肉と交換するようなイメージ。
それを完全な自給自足かと言われると、そうなん?
それが出来ないなら山で野生の動物を狩るか。
狩人になる。
もし私がそれを選んでも野生に生息する植物の知識が無くて腹を壊すか、獲物が狩れなくて空腹でくたばる。
金は必ず必要。
どんなにやり甲斐を重視しても、金との繋がりを完全に無視出来ない。
結局金に偏ってやり甲斐を見出すどころかストレスにまみれた毎日を余儀なくされる。
で、チャンスを見つけては「金さえあれば」と嘆く。
私は金に縛られまくっている。
金縛りね。
きっと順序が違うのだ。
じゃあどうすりゃ「やり甲斐」を感じるのか考えると、まず、超一般志向の私はそもそも仙人になりたいわけじゃないから、社会の中で生きていく選択肢の中から仕事を選ぶしかない。
金と結びつく仕事の中から「やり甲斐」を探しに行く。
転職を繰り返し、やり甲斐を見出そうとするが、同僚や上司と揉めて、「こんなとこ辞めてやる!」となる。
「やり甲斐」を求めると、社会では自分勝手だと思われがちになるし、「夢ばっかり追いやがって!ガキがー!」と言われたりする。
強いと思い込んでた自慢のメンタルも、擦り切れそうなくらい薄くなって、あと一回のパンチで粉々になりそうな雰囲気。
私の中で、この世でやり甲斐を求めてもロクな事がない。
偶然就職が決まった会社でやり甲斐を感じて、毎日仕事がしたくてウズウズしてるような奴は、単純に羨ましい。
「なんて幸せな奴だ!」って思う。
憧れる。
だから自分もそんな仕事と出会えるんじゃないかと思って転職を繰り返してみたけど、結局ダメ。
何をやってもつまんない。
何をやっても満足しない。
何をやってもやり甲斐を感じない。
先にお金じゃなくて、やり甲斐を求めたらうまくいくような気がしてたけど、そうじゃなかった。
これは間違いない。
だって、検証済みだもん。
自分の人生を使って散々やった。
で、ダメだった。
思ったより近くにやり甲斐はある。
ゴール無き迷路に迷い込んだ私はある仮説を立てる。
「あれ?もしかして考え過ぎじゃね?」
ゴールが見えなくなって思考回路がバグったのかもしれないが、意外とやり甲斐は身近なところにあったりするんじゃないかと考え始めた。
そもそも私は仕事にやり甲斐を感じてる羨ま天上人が「仕事のどこにやり甲斐を感じてるのか」を直接聞いた事が無い。
無いのです。
私が「この人は仕事にやり甲斐を持ってて羨ましいなぁ」と思う人は基本的にテレビや雑誌のインタビューチックな情報から垣間見る存在ばかり。
それが本当かどうかなんざ結局本人にしかわからん。
もし私がインタビューをされる側だとすれば、間違いなく、カッコつける。
「追い求めるビジョン」みたいな言い方をする。
なんだよビジョンって。
私は思ったのです。
結局本当の事はわからない。
だからこそ「形にこだわってるなぁ」と。
きっと「金」と「やり甲斐」は別じゃない。
これ、めっちゃ重要。
これまで何をやってもやり甲斐を感じなかった。
だからこれからも転職を繰り返したところでそれが見つかる保証はない。
それなら「金を稼ぐ事にやり甲斐を感じるようになればいい」と思ったのです。
散々金とやり甲斐を別にしてきた。
別だと思ってた。
でもね。
金を稼ぐ事をやり甲斐にすりゃ基本的にどんな仕事でもやり甲斐を感じる。
もはや無敵。
ゴールが無い迷路に迷い込んだつもりでいたけど、そもそもそこは迷路じゃなかった。
ずっとゴールの場所は知ってた。
たった一つでいいのかも。
金稼ぎにやり甲斐を感じるなら、正直、仕事なんてなんでも出来る。
社長だろうが自営業だろうが社員だろうが契約社員だろうがフリーターだろうがプー太郎だろうがニートだろうが「やり甲斐」を感じられる。
どんな生活スタイルだろうが金を稼げればいいんだから。
問題はどこまで突き詰めていけるかだけになる。
私は子供の頃、サッカー選手になりたかった。
結果、自分のせいで諦めた。
その自分のせいってのは、「サッカーだけをやってなかった」って事。
思春期になりゃ多少生活も派手になる。
サッカーをやりながら様々な欲望を満たしたくなった。
それらの誘惑に流され、グラウンドに立つ時間よりも友達と遊ぶ時間の方が長くなった。
ボールを蹴る時間よりも恋をする時間の方が長くなった。
だから自分のせい。
絞れなかった。
目に映る世の中のキラキラのどれもこれもが手に入れたくなった。
甘々な私はそんなキラキラに魅せられながら生きてきて、出遅れた。
社会に出れば圧倒的な劣等生。
逆転なんて無茶な話だ。
今でもそう思ってる。
が、思いついたのだ。
逆転方法を。
もし、あの時、キラキラに魅了されていた自分すら、「金稼ぎ」にやり甲斐を感じていたとするならどうだろうか。
学生の時、派手な生活をしたきゃどうする?
バイトだ。
バイトした。
学生のくせしてアルバイトに明け暮れた。
金を稼げば多少は世の中のキラキラと交換する事が出来たからだ。
「サッカー選手になりたかった」ってのを否定する気はないし、諦めた夢がある事も認めよう。
でもそれすら私は将来的な「金稼ぎ」の為だったんじゃないかと思ってる。
その後のキラキラ欲しさのアルバイトも、転職を重ねた仕事も、「金稼ぎ」の勉強だったのかもしれない。
って考えると、まだ逆転は可能だ。
金稼ぎにやり甲斐を感じて、圧倒的な時間をそこに費やせばいい。
あの頃のサッカーで例えるなら、生きている全ての時間をサッカー捧げりゃいい。
当時それが出来てりゃプロじゃなくても、サッカーで金を稼ぐ手段を持てたかもしれない。
人はいくつも出来ないのです。
だったら社会との繋がりが最も濃いと思われる金にフォーカスする。
なんだよフォーカスって。
ダメならまたやり直せばいいじゃない。
恐らく、金稼ぎにやり甲斐を感じるのは簡単じゃない。
たぶん、激しく難しい。
「あれもダメ」「これもダメ」の連続になる。
きっとなる。
金が稼げなきゃやり甲斐すら感じないだろ。
人間なんて超単純で、うまくいってる時だけやり甲斐を感じるように作られてる。
うまくいってない時でも自分を信じて「絶対これで合ってる!」とか思える奴は異常だ。
異常なほどメンタル強し。
私はそんなに強くない。
これまでの失敗で薄くなったメンタル。
叩けばすぐ割れる。
でも金稼ぎに種類はない。
成功すりゃどれでも正解。
これまで何度も粉々に砕け散ったメンタルでも、なんとか拾い集めて、やり直して、今がある。
それは結果的に「金が必要」だからだ。
どんなに劣等生になっても、金を稼ぐ事は辞めなかった。
ちょっとおっさんになってじわじわ気が付き始める。
「私は金がなきゃ生きていけない」
超当たり前の事を超当たり前に言ってるだけ。
でもそれを忘れてやり甲斐を先に求めちゃって迷子になった。
実は、これまでずっと、たぶんこれからも、私は金を稼ぐ事にやり甲斐を感じてる。
多くの事を諦めて、失敗してきたような気がして、更なるやり甲斐を探してたけど、ずっと持ってた。
「金稼ぎ」
これからはこれ一本で行くと決めた。
それならダメでもまたやり直せそうな気がする。
だって、金稼ぎにやり甲斐が持てれば、私にとっては生きる事にやり甲斐を感じてるようなものだから。
お得感が満載。
どうか感想をください。