ブログを書き続ける事で何が出来るのか自分なりに考えてみました。
私がブログを本気で始めようと思ったきっかけは、なんとなく作ってみた恋愛ブログでした。
5年前にたった15ほどの記事を掲載。
一度はそれだけ作って本業もあるのでほぼ放置状態でした。
検索順位は気にしない。
アクセス数も気にしない。
作るだけ作って完全に放置。
放置したまま1年半以上経過して、「そう言えば!」とそのブログを放置していた事を思い出す。
なんとなくアクセス数を調べてみると、ひと月で約80000アクセスがあった。
検索結果からブログに訪れる人がほとんどで、ブログの内容は自分の恋愛観をまとめたものでした。
その時に知ったのは、検索順位が上がるまでには時間がかかるって事実。
それと検索順位が上がるとアクセス数が増える事実でした。
需要があるとは言い切れない自分の恋愛観とブログが合体する事で、ある程度のアクセス数を集める事に成功したわけです。
もちろん最低限のホームページを作るスキルや知識は必要かもしれません。
でもその知識ってのは今時ググれば出てくるんです。
私が自分の恋愛ブログを放置して、その結果検索順位が上がって、アクセス数が伸びた理由には、文章の作りだったり、文章の長さだったりも関係しているかもしれないけど、とにかく、自分なりの精一杯をブログに残した。
その結果、そこまでの色々なプロセスを端折って、アクセス数が伸びたのだと思っている。
過程なんて覚えていない。
だって確認してなかったんだから。
でもアクセスは伸びた。
私にはその事実だけで十分でした。
ブログの開設方法なんてのは、いくらでも検索出来るんです。
今、インターネットに求められているのはマニュアルじゃない。
個性だったり考え方だったり、それぞれの価値観だと私は思っている。
今回はブログを通して見えてきた、間違った「当たり前」に支配されて自分を見失いそうな人へ伝えたい。
たったひとつじゃ足りない時代。
私はそもそもブログを作ることが仕事ではなかった。
企業ページと呼ばれるホームページを作る仕事をしていたが、その仕事を、会社に勤めながら、なんとなく、「言われた通りに作る」って感じで捉えていた。
自分が持っている技術や情報は全て会社が持っている技術や情報となる。
どこかで自分という人間は「会社に居なければ価値は無い」って思っていた。
若い頃はバンド活動に明け暮れ、それと並行に「インターネットやパソコン」が大好きで、バンド活動を諦めて、気が付けばインターネットやパソコン好きが幸いにも仕事を与えてくれたような感覚だった。
拾われたような感じ。
運が良かったと言うか…。
これまで学生生活などを通して、どれかひとつだけでも頑張り続けばそれなりの結果は出るって思っていたけど、本当に「それなりの結果」しか残せない事を知った。
それには理由がちゃんとある。
すでに「ひとつの事」を頑張り続けて、成功を収めた人がたくさんいるからです。
「野球選手になりたい」っていう目標を持って頑張り続けて、誰よりも努力を重ねていた人を私は知っています。
もちろんプロとして活動する期間もあった。
でもほんの数年です。
活躍出来なければすぐに2軍。
それでも持ち前の努力を続けた。
けどダメだった。
「野球がうまい」だけではもうプロとしてやっていけない時代なんです。
年俸だって最低保証分しかもらえないまま引退になる。
理由は簡単です。
プロ野球の歴史は長い。
だから野球人口が多くなった。
そして「野球がうまい」って人が特別では無くなったから。
「野球がうまい」だけだと年俸も最低限のままで、引退すれば改めて就職先を探すような状態になる。
でも、「野球がうまい」と「教員免許を持っている」の二つがあればまた違う道でも活躍出来るんです。
ここに「教えるのがうまい」が重なれば監督やコーチとして野球の仕事を続けられるかもしれない。
子供の頃からの憧れの職業は今でもあまり変わりません。
だから人口が増える。
その人だけが持つ特別な才能と「野球がうまい」が重なってプロとして大活躍する選手もいる中で、「野球がうまい」ってのはもはや普通の人と変わらない評価になってしまった。
「野球がうまい人」なんてめちゃくちゃたくさんいるんです。
たったひとつの特技や、たったひとつの努力では、評価されない世の中になってきていると私は思います。
もし今の私が元プロ野球選手という肩書を持っているのなら、ブログを開設して、独自の目線や価値観で様々な分析を残すと思う。
チームごとの必要な戦力とか。補おうとしているポジションとか。
独自に調査してみたり、プロ野球選手になるまでの軌跡だったりを残す。
面白いブログなると思うんだけどなぁ。
その人にしか書けないブログってまだまだたくさんあると思うんです。
様々な人の価値観や考え方が優遇される時代。
少し前までは「好きな事で食べていく」ってのはめちゃくちゃ難しい事で、「会社に勤めている方が安心で安全で安定」だと思われていた。
でも中には不祥事を起こして利益を半減させる会社や、売り上げが伸びない現実からリストラをコンスタントに行う会社も出てきた。
「これまで通り」では成り立たない現状がある。
「会社に勤める」っていう「ひとつ」だけでは、本当の意味で安心ではなく、安全でも安定でもない。
給料が上がらないから「副業」をしながら会社に勤めている人がたくさんいる世の中になった。
そして「副業感覚で始めたなにか」で頭角を現す人も多く見られるようになった。
ツイッターやインスタグラムなどのSNSから人気になり、それが切っ掛けでモデルや芸能人になったり、本を出したり、youtubeでチャンネルを持ち、独自のファンを抱え、多くの視聴率を獲得する人も現れた。
もちろんブログもその中の一つです。
インターネットの普及と速度の上昇によって、様々なサービスが生まれ、その上に副業を超える存在が現れたんです。
芸能事務所に所属するわけではなく、特別な資格を持っているわけでもなく、「好きな事で食べていく」っていう形が作られていく。
そして、そういった個人を認めてくれる人がたくさん現れた。
もちろん簡単なことじゃない。
それぞれが独自の考え方を持って、努力を重ねているからこそ「本業」になるんだと私は思っている。
ただ、嬉しいのは、会社に勤めるのが全てではなく、自分が本当にやりたい事への情熱が無視されない風潮になって来ている事。
結局多くの仕事が無くなると言われているAI時代にも、新しい仕事が生まれている事実が重なって、より多くの選択肢を選べるようになるんじゃないかと期待してる。
社会の成長はこれからが楽しいんです。
考え方によっては「副業」と「副業」を重ねることで「本業」になる。
そもそも会社で言う、「IT企業」ってそういった「インターネットを使った副業」の全てを集めたような用語なんです。
インターネットを介したブログやyoutubeやSNSを駆使して利益を出す企業。
それも「IT企業」なんです。
って考えると、これからはほとんどの企業が「IT企業」になるんじゃないだろうか。
どれもこれもインターネットを介した個人の価値観や考え方が優遇されつつあるからこそ可能になるビジネスだと私は思っている。
料理で言うならば、インターネットは「塩」です。
そのくらい当たり前に使われる。
自分の価値観や考え方を発信するのが当たり前になった今だからこそ、真実社会の在り方が見えてくるような気がするんです。
まだまだ盛られている部分や隠されている部分が多そうですが。
人の価値は足し算じゃなく、掛け算で決まる。
「ひとつでは足りない事実」や「個人の価値観や考え方」が優遇される社会になると、人の価値そのものが変わってくる。
これまで特別視されていた事が「普通」になった今、「貴重な人材」はどんな人を指すのか。
企業的に考えると「仕事が出来る」のは当たり前なんです。
そこに「英語が話せる」などのもう一つのスキルが乗って初めて「貴重な人材」になる。
もちろん多くの人に求められているスキルは優遇されるが、「多くの人が求めている事実」は次の当たり前になる。
つまり、「仕事が出来て、英語も出来る」が次の当たり前になる日も近いんです。
ただ、今現在必要とされるスキルを複数持っていると、その人の価値がグンと上がるのはなんとなく理解出来ると思う。
「タクシー運転手」の仕事をしながら「英語が話せる」と、その人の価値は圧倒的に高くなるんです。
これは足し算のレベルではない。
掛け算方式にレベルが高くなる。
「タクシー会社を経営している人」であればめちゃくちゃ欲しい人材になるんです。
そして個人タクシーとしても独立が可能になる。
タクシーに「English ok」のステッカーをデカデカと貼ってあるだけで海外旅行者を獲得出来る。
売上も倍になる。
つまりその人の価値も倍になったんです。
ってことは、さらにもう一つのスキルを手に入れられれば、そこからもう一つ倍になる。
相当の努力が必要になるけど、何に向かって努力しているかは明確にするべきだと思う。
サッカー選手になりたい夢を持っているのに「ボール拾い」を一生懸命やっても意味はない。
努力の方向を間違えると目標まで遠回りになる事だってある。
全ての努力が報われない瞬間は「意味がわからない当たり前」によって作られたりするんです。
これまでの「当たり前」に疑問を持たなくちゃ。
これまでは「ひとつで良かった事」も「従うしかなかった風潮」も「副業の考え方」も、最初に誰かが「間違ってる!」と疑問を持ったことが切っ掛けで、「私もそう思う!」みたいな同意的意見が発信されるようになった。
それをメディアが取り上げるようにもなった。
炎上とかがそれに該当するかもしれない。
話が少し変わりますが、子供の頃、ちょっと下品な質問なんだけど、こんなのがあった。
「う〇こ味のチョコとチョコ味のう〇こどっちが良い?」
これです。
大人になった今は「何言ってんだよ」と思うけど、当時は「えーっとねー」なんて悩んでました。
心理学的な二択質問の方法とかもあるかもしれないけど、そんなのはどうでも良くて、「どっちかを選ばなくてはいけない」って思ってたんです。
子供の頃からの教育なのか、そもそも考える程度が低いのかはわかりませんが、「こっちかな!」って選んでた。
で、「マジで!?」みたいな反応を見てみんなで楽しむ。
子供の遊びです。
でもそこで、「どっちも嫌じゃボケー!」って言える時代になったんだと思っています。
二択だった質問の答えに三つ目の答えを出しても良くなったような感じがしている。
これまでの当たり前に疑問を持って、「違う!」とか「私はこうだ!」と主張することが「いけない事」ではなくなった。
私が学生の頃は「みんなの足並みを乱す奴」は基本的に少し嫌われていたように思う。
でもそうじゃなくて、自分がやりたい事や言いたい事をを伝えた上で議論する場が与えられるようになったと思っている。
社会は人と人が繋がりながら作られているので全てが自分の思い通りになるわけではないけど、「これはおかしい!」って誰もが思っていることを我慢しているような世の中でもなくなった。
となると、私の中にある「当たり前」も改めて整理しなくてはいけない時期かもしれない。
どうか感想をください。